時代を見る目 152 父のアイデンティティ(2) 平安貴族と現代サラリーマン
笹岡 靖 ARKホームエデュケーション・サポート協会代表 父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした(ルカ一五・二〇)。放蕩息子のたとえ話など聖書にある家庭の姿を見ると、父親の存在と責任が大きくクローズアップされている。私は、自分自身の問題として、長い間この父親の家庭責任ということが今ひとつ理解できなかった。父親が関わらないほうが家庭はうまくゆくという考えが自分の心の深いところにあることに、あるとき気づかされた。 そう言えば、自分が子どものころ、父親と一緒に遊んだとか、何かを教えられたという体験は、数えるほどしかなかった。当時の気持ちは、父親ではなく、母親に向いていたように思う。記憶をたどってみても、何かを教えられたと思うのは、父親ではなく母親なのだ。たとえば、家のお金を盗んでチョコレートを買いこっそり食べていた私を見つけて、叱り、矯正してくれたのは母であった。 女性が家庭の責任を担うという女系社会という伝統が、日本という風土に住むわれわれのDNAに深く刻まれているのではないかと思う。源氏物語などを見ると、日本の平安貴族たちの間で行われた結婚形態のひとつに、「通い婚」がある。男性は、女性(そして子ども)の住む家に自分の気の向いたときに「通って」ゆくという形式である。私は、現代家庭にもこの通い婚が根強く残っているような気がしてならない。男性は、「会社」という宮仕えの場から、夜の間だけ、妻と子どもの待つ家に通ってゆく。「家庭の問題の責任は、お前(妻)に任せてある」という言いわけが当然のこととして許されてしまう社会である。 生活するためには、大別して、会社(組織)に勤めるか、自営業者となるかのどちらかしかない。会社組織に属するならば、退職金や年金など手厚い保障がある。しかし、会社という家庭と切り離された環境で長時間を過ごさなければならない。会社勤めをすることによる損失は、父親が会社でやっていることや仕事で培ったスキルが子どもたちに伝達されないことであると思う。子どもは、家庭を通して働く訓練を受けたり職業意識を培ったりするチャンスを失ってしまったのではないか。父親の働く姿が家庭の遺産として残せない時代となっている。 放蕩息子のたとえ話は、父と息子とが良い関係を形成することが決して容易ではないことを示している。日本の家庭に父親の姿が見えるようになるために、乗り越えなければならないハードルは高い。…
子どもたちに夢を
ことばは「命」を与える インタビュー 坪井節子さん
最近では、児童虐待やいじめなどのニュースはめずらしくない。国は、社会は、親は、何をしているのかと、私たちは憤りを感じ、原因を探ろうとする。だが、新刊『子どもたちに寄り添う』は気づかせてくれた。「私たちは、子どもたち自身の声を聞いてきたのだろうか」と。 著者、坪井節子さんは、苦悩で眠れない夜があっても試行錯誤しながら、子どもたちの声を聞き、寄り添ってきた。その動力は子ども自身なのだと言う。「傷ついた子どもの顔が笑顔に転じたときの感動を、もっと大人に味わってほしい。子どもたちが将来に対して希望や夢を持つことは、私たち大人の未来がひらけていくということなのだから。」 弁護士である坪井さんは、20年ほど前から、弁護士会を基盤とする子どもの人権救済活動に携わり、学校におけるいじめ、体罰、不登校、家庭内や児童福祉施設内での虐待、犯罪、売買春などの問題を抱えて苦しむ子どもたちの相談を受け、代理人あるいは付添人として活動している。 こうした活動の中から、2004年6月、家庭崩壊や虐待などの理由で帰る家がない子どものための緊急避難場所(シェルター)「カリヨン子どもの家」を誕生させた。弁護士や児童福祉関係者などが中心となり、多くの市民や団体の支授を受けて、NPO法人カリヨン子どもセンターを設立し、運営にあたっている。「人権」を救済するとは もともと坪井さんは、人権や社会悪に対する強い意識をそれほど持っていなかったと言う。弁護士ならば「人権」にかかわる仕事をするものだろう、子どもの相談ならできるだろうと、たかをくくって始めたのが「子どもの人権救済センター」の相談員だった。 しかし、そこで虐待やいじめといった陰惨な環境に置かれている子どもたちに出会う。 「私はかつては、(人権ということばを)『人間の尊厳を守る権利』と定義して、わかったつもりでいました。ところが、『子どもの人権救済活動』という名の活動に従事するようになってから、『人権』とは何かがわからなくなってきたのです。子どもたちが陥っているあまりに悲惨な現実、苦しみや悲しみの思いを知るにつれ、何もできない自分に戸惑い、何をすればいいのかがわからず、混乱しました。そして人間の尊厳とは何なのか、人権救済とは何なのか、そもそも人権とは何かがわからなくなってしまったのです。」(95頁) 何をしたら、何を言ったら、子どもの人権を救済することになるのか、わからなかった。その中で坪井さんにとっては、目の前の子どもが元気になり、生きていてもいいと思えることが、「救済する」ということだった。ことばが「命」 そんなふうに多くの子どもたちとかかわりを持ちながら、坪井さんが見いだしていった、ことばとして伝えるべき3つの人権の柱がある。 ひとつめは「ありのままのあなたでいい」と伝えること。虐待を受けてきた子どもは、命を大切にされたことがない。そのような子どもたちに、「あなたは生まれてきてよかったね」「だから、生きていてほしいのよ」と伝えると、子どもたちは、前を向き始めるのだと言う。生きていていい、生まれてきてよかった、と思えることは、「生きるための底支え」なのだ。2つ目は、「あなたはひとりぼっちではない」と伝えること。 そして、3つ目に「あなたの人生はあなたのもの」と伝えること。大人が納得するような解決をしても、子どもが元気になっていないという失敗を何度もくりかえしたという。子ども自身が、問題に向き合って解決しなければならないのだ。 「当たり前のことなのに、子どもたちはこういうことばを聞かされてなかった。だから自分の命を大切にできないの。ことばが『命』。聖書にあるとおりね。」教会に戻って 坪井さんは、幼児洗礼を受けていたものの高校一年生のときに教会を離れた。しかし弁護士となって子どもたちの悲惨に直面するようになり、どうすることもできない圧倒的な無力感の中で、神に戻った。「あの子どもたちの涙の一滴、血の一滴を抱き止めてくれる神にいてほしいと。いてもらわなければならない」(122頁)と思ったのである。 祈るようになってから10年ほどたち、神に連れ戻されるようにして坪井さんは再び教会に戻った。1999年のことである。 イエス・キリストの十字架の意味も、やはり子どもの苦悩に重ねることによって教えられた。 「イエスは何の罪もないのに、この世でもっとも残虐な刑でなくなったでしょ。むち打たれ、唾をかけられ……これは子どもたちと同じだと思ったの。この世でもっとも屈辱的な体験を味わったイエスだからこそ、虐待を受けた子どもたちに最後の最後まで寄り添うことができる。陰惨な十字架の事実がなければ、子どもたちは救われないの。そしてその事実は、私のためでもあるんだって気がついた。私のためにも十字架にかかって、『あなたとともにいるよ』と言ってくださっている。」語ることばを持っている 教会に通うようになって驚いたことがあった。それは、教会で語られていることが、子どもを生かすことばとして体得してきた「人権の三つの柱」と同じだったからだ。「ありのままの存在を認めてくださる」父なる神、「この世の何ものにも屈することなく常に人の人生の先に立って導かれる」イエス・キリスト、そして「常に人とともにいて励ましてくださる」聖霊。まさに3位1体の神と重なった。 「もっとも人間らしく生きるということは、神様から伝えられていることばを聞くこと。神様から人権が与えられているのですね。そして、それはクリスチャンではない人にも保障されている。」 だからこそ、坪井さんは願う。「教会の外には、ひとりぼっちの人がたくさんいて、『こんなみじめな自分は生きていられない』と思っている。クリスチャンは、語るべきことばを持っていることを知ってほしい。そして、勇気を持って語ってほしい。」「死」から「生」へ 「カリヨン子どもセンター」には、虐待や家族崩壊、非行などの苦しみを抱えた子どもたちが避難してくる。2004年からこれまで75人が、ここで1、2か月ゆっくり体と心を休め、弁護士やスタッフと相談しながら自分で行く先を決め、再出発している。「2週間くらいかな。カリヨンにきた子どもに、10人以上の大人たちがあたたかいことばのシャワーを浴びせるの。子どもたちの表情が変わっていく。」自分みたいなみじめな人間は生きていてはいけないと多くの子どもたちが思っているという。ましてや教会になんて行ってはいけないと言った子どももいた。 「『子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません』(ルカ18・17)って聖書にあるでしょ。」自分は弱い、自分で自分を救えないと思っている子どもたちこそ神様が招いておられる。だから神様から保障されている「人権」、つまり「生きてほしい」という願いを伝えると、子どもたちは輝きだす。 子どもたち自身が、「生きていていい」と思えること、これが救済。ベクトルが「死」から「生」に変わった子どもたちの輝きは、何ものにも代え難い。…
子どもたちに夢を
ことばは「命」を与える 「カリヨン子どもセンター」とは
「カリヨン子どもセンター」とは 困難を抱える子どもたちのために、避難場所、生活する場所を提供し、弁護士による法的支援や児童福祉関係者や市民による福祉的支援の両方をおこなうNPO法人です。様々な機関・団体とネットワークを結び、子どもの人権救済のために活動しています。シェルター(緊急避難場所)「カリヨン子どもの家」(定員4人)と、男子自立援助ホーム「カリヨンとびらの家」、女子自立援助ホーム「カリヨン夕やけ荘」(各定員6人)があります。カリヨン子どもセンター事務局〒113-0033東京都文京区本郷5-19-6 坪井法律事務所内TEL.03-3818-7400 FAX.03-3818-8296Eメール carillon@r2.dion.ne.jpホームページ http://www.h7.dion.ne.jp/~carillon/子どもの人権110番(東京弁護士会子どもの人権救済センター)子どもの人権に関する相談のすべてを扱います。相談は無料です。ひとりで悩んでいないで、なんでも気軽に相談してください。★電話相談TEL.03-3503-0110★面接相談TEL.03-3581-2205 無料・要予約相談時間電話相談も面接相談とも同じです 月~金曜日 13:30~16:30 17:00~20:00 土曜日 13:00~16:00*平日夜間・土曜日午後の電話・面接相談は公設東京パブリック法律事務所(東京・池袋)にて行っています。『子どもたちに寄り添う』坪井 節子カリヨン子どもセンター理事長/弁護士いじめ、体罰、家庭での虐待。子どもたちを傷つける社会。子どもたちに何が起こっているのか。そして大人たちがすべきことは何か。日本で初めての子どもたちのためのシェルター(緊急避難場所)を作った弁護士が、カリヨンで出会った子どもたちから教えられたことを語る。 B6判 192頁 定価1,365円…
ブック・レビュー 『のこされた者として生きる』
在宅医療、グリーフケアからの気付き
稲葉 裕 順天堂大学医学部衛生学教授福音主義医療関係者協議会会長 のこされた者への思いが伝わってくる 「葬儀のときに配布できるよい本がないでしょうか?」という方に推薦したい本が出版された。導入の部分から、引き込まれる思いで一気に読むことができる。「まずは目次をながめて黙想してみてください」で始まり、「本書では、出会いがあったから喪失があるのだと捉えています。……自らを慰める方法を習得し、癒しを体験していきましょう」と呼びかけられる。副題にもあるように在宅医療の専門家として多くの看取り、グリーフケアを経験(体験)してこられたキリスト者医師である著者の気づきからの、のこされた者への思いが伝わってくる。 目次には、それぞれ含蓄のあることばが使われ、内容を考えさせられるので紹介したい。悼む──「出会い」と「喪失」喪──喪の四段階「喪失期」「混乱期」「安定化期」「独立期」のこされる前に(介護者として)──3つの大切なこと「健康」「告知」「介護参加」のこされた後に(遺族として、遺族に対して)──2つの基本「保証」「共にいること」先立つものとしての配慮(のこす者として)──「尊厳」と「自己満足」再会(のこした後に残るもの)──「物語」(ナラティブ)とスピリチュアル・リアリティ幸せに生きるために──突然の喪に備えて必要なもの「コミュニティ」今、できること──祈りが癒しであって、祈りによって癒されるのではない 章の終わりには適切な聖句も示されており、聖書を読んだことのない方にも、キリスト者にも教えられることが多いと思う。 随所に医師として、医療関係者としての自戒、患者・家族の方々への願いなどもちりばめられており、実際の診療現場での人間関係をよりよいものにするためにも役に立つのではないかと思われる。人間の死と生について考える上での貴重な書物であり、価格も、大きさも手ごろなので、教会に複数冊備蓄しておいて、急な葬儀のときにも対応できるようにしておくことをお勧めしたい。…
ブック・レビュー 『霊的リーダーとなるために』
ダニエル・アイバーソン 日本長老教会 おゆみ野キリスト教会 牧師 私たちはみな、リーダーとしての責任が与えられている まだ私が20代で駆け出しのリーダーだったころ、初めてこの本を読み、大変感銘を受けました。約10年間のリーダーとしての経験の後、30代になって神学校に入学し、再びこの本を読む機会が与えられました。改めて、この本は本当にすばらしい名著だと思いました。3度目に手に取ったのは30年間リーダーとしての経験を積んだ50代になってのことです。じっくり読み返し、そこにつまっている宝を、周りの人たちにも伝える必要を感じました。 すぐさま3冊手に入れ、リーダーとして仕えている3人の息子たちにプレゼントしました。次男は1日のうちに読み終え、「お父さん、いい本だったよ」と言ってきましたが、私は、「こんな名著を1日で読み終えることはできないよ。じっくり、そして自分の人生の肥やしになるように噛み砕きながら読むんだ」と答えました。 この本は単なるノウハウにとどまることなく、霊的な高みを目指すよう絶えず読者にチャレンジを与えています。たとえば読書についてです。読者が著者の思想に触れ、何らかの感化を受けるという効能にとどまらず、読者と著者との間に人格的交わりがなされるのだと指摘しています。(つまり、本書を読むことによって、すぐれた霊的リーダーであったサンダース師との「人格的交わり」ができるのです!) 息子に贈ってからも、何冊も買ってはクリスチャンの友人やリーダーたちにプレゼントするようになりました。そこに書かれている豊かな内容を、日本人の同労者たちや神学生たちと分かち合い、感銘を受けています。 私たちには、大なり小なり何らかのリーダーとしての責任が与えられています。親は子の、同僚から悩みを打ち明けられたら、あなたはその人にとってリーダーとなります。その意味で、本書はすべての信徒の必読書です。翻訳出版されたことを心から嬉しく思います。…
ブック・レビュー 21世紀ブックレット31
『ウェストミンスター小教理Q&A107』
石丸 新 日本キリスト改革派教会 引退教師 理にかなった信仰が貫徹できるように願い求めて…… 360年前に英国で作成され、世界中で広く用いられてきた『ウェストミンスター小教理問答』の手ごろな解説書が、宇田進先生の翻訳・編集により刊行され、早速、再版を重ねました。 原著者ポール・G・セトルは、現在は、アメリカ長老教会の教職で、問答を教える実際の経験から、このコンパクトな学習テキストを生み出しました。1974年に、日本キリスト改革派高知教会の石井正治郎牧師(当時)により翻訳され、英・日両文対照の形でタイプ印刷されたものを、私は今も大事にしています。 これを参照しながら、宇田先生が翻訳・編集されたのが本書です(後記)。長年にわたり、牧会と教育の務めに励んでこられた経験が、「編集」の作業に結晶しています。 特に、「はじめに」の第一項「なぜ今“教理問答”を?」は、極めて有益です。神の民である教会の信仰にとって規範的なものとしての信条の重要性が、まず指摘されます。そのうえで、聖書真理の体系を「神の福音の論理」と定義し、教理問答を「信仰の道筋」を示すものと位置づけています。本書の副題に「キリスト教信仰の道筋」とあるとおりです。 編集の跡は、1例を挙げれば、問60の解説6で、終わりの1行半を追加したところに見いだされます(68頁)。必要に応じて、問答原文の用語をカッコに入れて示しているところから、訳者の親切心をくみとることができます。本問答の構成と内容を一覧で示すほか、『信仰告白』『大教理問答』の参照箇所を併記することについても同じです。もっと学びたいという聖なる欲求をうながす訳者の思いが伝わってきます。 過不足ない書き方に貫かれたこの解説書を実際に用いることによって、「伝えられた教えの規準」(ローマ6・17)に服し、「健全な教え」(テトス2・1ほか)に従い、理にかなった信仰を貫徹できるように、と願い求めます。…
高校生のためのエッセイ
永遠志向 第5回 結婚の嬉しさは
荒井恵理也 高校生聖書伝道協会(hi-b.a.)スタッフ “カノジョいない暦十八年”そんな勲章を背負っていた高校生時代、彼女のいない自分が恥ずかしくていたたまれない気持ちだったことを覚えています。そのころは付き合うことと結婚することのふたつを混同し、現実離れした「結婚」に憧れていました。早く彼女がほしくて彼女ができたら友だちに自慢する、そんなありふれた考え方にボクもばっちり呑まれて生きていたんですね。 高校を卒業したらすぐ結婚したいとか、一緒に住みたいとか、好きなだけで結婚するなんて聞くと昔の自分を思い出して溜息が出ます。何も知らずただ“結婚ごっこ”をしている子どもです。でも、冷めたら別れればいいとか、自分の時間がなくなるとか、お金も自由に使えないなんて言って、結婚に何の期待もしていない大人に比べたら、まだましかもしれません。 『真実の結婚を求めて』の中に、リベリアの教会で結婚の記念として若いカップルに贈る、結婚を象徴した彫刻の写真が載っています。男性と女性をモチーフにした二つの彫刻が、完全に独立しながらも木製の鎖で繋がっていて全体でひとつの彫刻になっています。これはひとつの木を削って作ったので継ぎ目がありません。結婚の本来的意味を現しているということです。 結婚の喜びって、ひとつの存在であることを実感していくところにあるのかなって思います。初めて彼女ができたときは、確かに嬉しかったけど、神様が与えてくださった、ただひとりの人と迎えた結婚式の嬉しさはまったく次元の違う感動がありました。子どもが与えられてその顔を見たときの嬉しさはそれ以上です。実はその「嬉しさ」は、「カレシカノジョ」の関係とはまったく別のものです。そしてその「恋愛」はやがて味わう「嬉しさ」を壊してしまうことがあると知ってほしいのです。 高校生に結婚の本を勧めるのは、早すぎるとは思いません。世の中のゆがんだ結婚観が身についてしまう前に、健全な結婚観に触れてほしいです。でもこの本、高校生が買うにはちょっと値段が高いですよね。だれかこの文章を読んだ大人が高校生にプレゼントしてくれないかなぁ。…
私の子育てこれでいいの!? 第5回 ママ、どうしてわからないの?
グレイ岸ひとみ わが子ならば、泣き方や声を聞けば、なぜ泣いているのか、生活のリズムでだいたい見当がつきます。でも「何で泣いているの」かわからないまま、泣きやまない赤ちゃんを夫と交代で必死にあやすこともありました。わかってあげられたら親としても安心なのに、言葉で伝えられたらどんなにか楽なのにと思っていましたが、会話ができるようになってからも、自分の子どもであっても理解してあげられないことがあります。そんなとき、親として限界を感じます。 いっきに二人の妹が加わり、長女れいあの生活は一変しました。ショックや寂しさ、いろんなことを想像して、できるだけフォローをしました。産後二か月でれいあと一緒に親子スイミング教室に通ったり、意識して一緒の時間を作ったり。とはいっても新生児が二人、常にだれかがおっぱいに吸いついている状態でした。目立った赤ちゃん返りもなく、数か月が経ったころ、朝になると、れいあが妹たちの洋服を着始めるようになりました。一生懸命に小さな服を引っ張って着ようとしている娘を見て、最初はイライラしました。「やめなさい、伸びちゃうよ」と言っても聞こえない様子。れいあも必死でした。よだれかけをして完成。「どうして着るの? 早く脱ぎなさい」。抵抗するれいあを、どうしても理解することができませんでした。 ようやくある日、「もしかしたら、れいあの精一杯の赤ちゃん返りなのかも」と気づきました。妹たちのようになりたい、ママの目を引きたい。れいあの一途さが伝わり、思わず彼女を抱きしめたことが、昨日のことのように思い出されます。その日から、家の中では赤ちゃんの服を着てもいいことになり、大満足のお姉ちゃんでした。なぜもっと早くわかってあげられなかったのかと、自分を責めました。 自分の思いや気持ちを言葉で表現できない子どもたちとのコミュニケーションは、簡単ではありません。親として途方に暮れることがありますが、思いどおりに伝わらないときの子どものフラストレーションもすごく強烈だったりします。 特に眠かったり、疲れていたりするとき。 子どもの性格がからみ、もっと難しくなることも。双子のひとり舞香の言動に、のんびり・おっとり派の私は、よく理解に苦しめられています。二歳で、小学生の男の子に向かっていくほど気の強い舞香です。喜怒哀楽の表現がはっきりしていて、わかりやすい性格をしています。その反面、「どうして?」と首をかしげることも。 幼稚園からの帰り道、「今日は、はあちゃん(はづき)が、先生に怒られちゃったんだよ」と舞香が報告してきました。「そうかぁ、はあちゃんは何をして怒られたの」と聞いた次の瞬間、「何言ってんの、怒られたのは舞香でしょ」とお姉ちゃんの訂正が入り、気まずそうにする舞香……。 先日、れいあのランドセルが届いたときもそうでした。みんなでみとれた後、おやつを食べていると、「大変だぁ」という叫び声が。じじ、ばばが走っていくと、ボールペンでランドセルに落書きをしている舞香の姿が! 「どうしてお姉ちゃんの大事なものに!」母として複雑です。 冬休みに入って間もなく、元気のないれいあに気づきました。風邪をひいていたのですが、それだけではなさそうです。考え込んでいました。「友だちにこんなこと言われた……」「火事が怖い」「戦争はなぜ起こるの」「小学校に行きたくない」。あれやこれや問題の根本がわからないまま、私も気が沈みました。でも「なんだかよくわからないけど、れいあひとりで悩むしかないのかな」と思い、母は手を引きました。れいあのことをすべて理解してくれているのは神様だけ。その神様に信頼して、おまかせしました。 答えが出ず、すっきりしない日が二週間くらい続きましたが、ある日、三十九度の熱が半日だけ出て、その後は、晴れやかに元気なれいあに戻っていました。 ひと皮向けた成長ぶりに、幼稚園の先生にも驚かれたほど。 話は舞香に戻りますが、ひとつ彼女がこだわり続けていることがあります。それは、「トイレではウンチをしない」というかたくなな決断です。できるくせに、なぜか座らない。「何をしてもダメ(親の見解)」なのです。なぜ? どうしたら? いつから? 「ありのままの舞香を愛してね」というメッセージを彼女から感じ取っている今日このごろですが、先日も聞いてみました、「ねぇ、いつからトイレでウンチしようか」。答えはいつもと同じでした。「八歳!」幼稚園の先生のアドバイスは、「本人にまかせなさい。ここまできたら親は黙っていればいい」と。う~ん、それができない~。 理解できないことや受け入れ難いこともありますが、とにかく向き合って、子どもの話に耳を傾けて、コミュニケーションを十分にとっていけたらいいですね。…
往復メール shioya 最終回 バーバラ・ヘンドリックス
塩谷達也 シンガー/ソングライター/プロデューサー JECA 西堀キリスト福音教会会員 マヘリア・ジャクソンが敬とのデュオの原点となったアーティストだったことは前にも書いたけれど、もうひとり大切な人を忘れちゃいけない。バーバラ・ヘンドリックスだ。僕は、『Negro Spirituals(黒人霊歌)』(1983)というアルバムを聴いて彼女を知った。 彼女のスピリチュアル(霊歌)は、昔からクラシックをほとんど聴かず、ブラック・ミュージックに傾倒していた僕をうならせた。レパートリーとして黒人霊歌を歌うという試みは他の黒人オペラ歌手も行っている。たとえば、ジェシー・ノーマンやキャスリーン・バトルのアルバムでもスピリチュアルを聴くことができる。オペラの技術的知識なんかまったくなかったけれども、僕の耳には、バーバラのスピリチュアルがどこか他のシンガーのものと違うように聴こえたんだよね。 それは、何というか、悲しみ、うめき、そして神へとすがる真っ直ぐな心、名もない奴隷たちが歌った霊歌に込められた感情や思いが、技術を超えて伝わってくる歌だった(それにはピアニストも貢献しているんだけど、そのあたりは敬にまかせて……)。 スピリチュアルに出会ったころの僕の人生に、キリストはいなかった。にもかかわらず、バーバラの歌った黒人霊歌を次々と歌い、他の唄とは違う何かを感じていた。今振り返ると、すでにあの時から種はまかれていたと思う。僕はやっぱりシンガー。小学校に上がる前から演歌を歌い、中学校でロック・バンドを組み、高校でライブハウスに出て、大学で黒人音楽に出会い、人生のすべてのポイントで唄を歌い、唄を通して、大切なことを感じとり、学んできた。黒人霊歌を通して、信仰の姿を感じ取れたことに、今あらためてその意味を感じている。…
往復メール kei 最終回 バーバラ・ヘンドリックス
那須 敬 国際基督教大学 社会科学科助教授(西洋史) JECA 西堀キリスト福音教会会員 一口にゴスペルと言っても好みはいろいろあって、今風のおしゃれなサウンドが好きな人も、古くさいソウル好みの人もいる。でもバーバラのCD『Negro Spirituals』は、ぜひ聴いてみてほしい一枚だ。よく知られた黒人霊歌が並んだ教科書的な選曲だけれど、聴けば聴くほど、他に例のない変わったアルバムだとわかる。 オペラ歌手だが白人とは発声が違うし、かといってゴスペルお馴染みのシャウトは出てこない。クラシック出身のロシア人ピアニスト(ドミトリ・アレクセーエフ)の演奏は、繊細で躍動感に満ちているがまったく「黒く」ない。時代も、ジャンルも、人種の匂いも感じない、言ってみれば期待を裏切るゴスペル音楽。にもかかわらず「Nobody Knows The Trouble I’ve Seen(誰も私の悩みを知らない)」といった、単純な歌詞の一つ一つが、圧倒的な説得力で聴く者の心をゆさぶる。 商品経済の中に生きる僕たちは、聴く音楽の種類に限らず生活全般において、自分が選択するものがどんなジャンルに属するか、つまり「○○っぽい」かばかりを考えるようになってしまった。食事をするのに、照明やインテリアの雰囲気とか、他の客の服装を見てレストランを選ぶようにね。 でもこれを教会でやってしまったら残念だ。「ゴスペルっぽい」盛り上がりを期待してゴスペル・ワークショップに参加していないだろうか。キャンプに行く時には、キャンプ特有の「あの」感動を、イベントや集会には高揚を、あらかじめ自分で予定していないだろうか。しかし、もし「期待どおり」の体験ができたのなら、実はそれだけでしかないのかもしれない。 バーバラの歌は、ほんとうに大切なもの、ほんとうに普遍的なメッセージは、人が期待するパターンを裏切り、飛び越えて届いてくる、ということを思い出させてくれる。そう、人間の考えを見事に裏切って、僕らの心をつかんだのは、イエス・キリストだったね。…
新約聖書よもやま裏話 第21回 ローマの「福音」!?
伊藤明生 東京基督教大学教授 紀元前31年、ユリウス・カエサル(またはシーザー)の甥で養子でもあるオクタヴィアヌスが、アクティウム沖海戦に勝利した。敗北した敵は、アントニウスとエジプトのプトレマイオス王朝最後の女王クレオパトラであった。「もう少し鼻が低かったならば、世界の歴史が変わっていた」という「絶世の美女」、誉れ高き人物である。以前はユリウス・カエサルの、この時点ではアントニウスの愛人であった。アレクサンドロス大王の後継者たちの王国として最後まで生き延びたエジプトのプトレマイオス王朝は、こうして滅んだ。 この勝利の結果、しばらく続いた内戦状態が治まり、オクタヴィアヌスは地中海世界を統治するようになった。形式上は共和制を貫き、元老院に主権を譲渡して、自らは「第一の市民」となった。そこで、正式には「元首政治」と称されるが、このとき実質的に帝政が始まり、オクタヴィアヌスは大版図を掌中にした専制君主となった。ヘロデ大王支配のユダヤも属国としてローマの間接統治下に組み込まれて、後にローマ総督が支配する直轄統治となった。 この初代「ローマ皇帝」こそがルカの福音書2章1節の「アウグスト」である。アウグストまたはセバストスとは「尊厳な者」を意味する愛称であった。正式な名前は「ガイウス・ユリウス・カエサルの子・オクタヴィアヌス」である。紀元前27年以降の称号は「皇帝カエサル、神の子」であった。ここでいう「神の子」の「神」とは、死後に神格化された義父カエサルのことである。ローマの平和 アウグストがもたらした平和の結果、未曾有の繁栄がローマ帝国にもたらされた。少なくとも、帝国は、そう宣伝してアウグストの統治を美化した。確かに戦争に継ぐ戦争となると、人心は疲弊し、経済的な損害が大きくなる。とりわけローマ帝国の版図は壮大なものであり、ローマの軍隊を迅速に移動させるために帝国全土に道路網が完備された。「すべての道はローマに通じる」と言われた所以である。 ローマは次第に大都市になり、多くの人口を抱えるようになった。市民を養う穀物はエジプトのナイル河畔で収穫され、船でアレクサンドリアから輸送された。交通網が発達し、平和が続けば、人々は商業活動に励んだため、経済活動が活発化して一財産を築き上げた人もいた。だから、「ローマの平和」をもたらし、人々に「幸福」(=経済的繁栄)をもたらしたのは、神の子アウグストで、彼こそが救い主だ、とローマ帝国は宣伝したのである。まさにローマ帝国の良き知らせ、「福音」であった。「神の福音」 アウグストのあと、テベリオ(あるいはティベリウス)、ガイウス・カリグラ、クラウデオと帝位に即いた。ガイウス・カリグラは、自分の像をエルサレムの神殿に安置すると言って聞かず、一触即発の危機となったが、シリヤ駐屯の軍隊が手間取っている間に、暗殺されて事なきを得た。 クラウデオ帝は、キリスト教を巡ってローマ市内のユダヤ人たちが騒動を起こしたので、市内からユダヤ人を追放する勅令を発布した。とはいえ、大枠ではローマの平和、繁栄の時代が続いた。パウロが異邦人宣教のために、帝国東半分を縦横無尽に行き巡ることができたのは、ローマの平和のおかげであり、当時としては発達した帝国内の交通網に負うところ大であった。 パウロがローマのキリスト者たちに手紙を書き送ったころは、悪名高いネロが皇帝となっていた。しかし、即位当初のネロ帝の治世は平穏無事で、「ローマの平和」がまだ続いていた。 そして、ローマ人への手紙に「神の福音」「神の御子」と書き記したとき、ローマのキリスト者たちは当然のこととして、ローマの福音、神の子たる皇帝と対比されていると思ったことだろう。当時はまだ平穏なネロ帝治世であったためであろうか、ローマ人への手紙13章で「上に立つ権威」に従うようにパウロは奨めている。「上に立つ権威」にはもちろん、皇帝も含まれていた。皇帝へ直訴し、ローマへ 現代西洋の法体系の基礎ともいえるローマ法はローマ人たちの偉大な遺産に他ならない。基本的人権という発想は後々のものであるが、市民たちの権利はローマ法で手厚く保護されていた。裁判で有罪判決がないまま、市民が鞭で打たれることは禁じられていた。また、市民は、皇帝に直訴して面前で裁判を受けることできた。 ユダヤのアグリッパ王やローマ総督フェストの前で裁かれたとき、パウロには何も悪いことが見出いだされなかった。しかし、ローマ市民権をもつ彼は皇帝に直訴し、ローマに護送されることになった。そしてユダヤ人からの危険を避けて、目指すローマにたどり着くことできたのである。…
四十路へのずっこけ恋愛道 教訓3 殉教の賜物と独身の賜物は死んでからでないとわからない、のか!?
松本望美 北朝鮮宣教会所属 いろいろな場所に宣教報告のため行くが、いつも「38歳、独身です。よろしくお願いしまーす」と自己紹介をする。それは「この宣教師、何歳なんだろう」と気が散り、うわの空で報告を聞かれては困るという配慮からである。すると、こんな声をかけられることが多くなった。「大丈夫よ! 私も高齢出産だったから」。これはまだいいほうで、「いいのよ、独身の賜物の人はガンガン宣教に出て行ってください」。え? 独身の賜物? 結婚する気はあるんですけど……。私って、そう見られてるの? そんな話を同じ宣教師の友人に話すと「私もよく言われるんだよねえ。○○さんは74歳で結婚したんだから、あなたも望みを捨てないで祈り続けてって」。それって、慰め? それとも、励まし? 「でも、結婚したいって気持ちはあるんだから、独身の賜物じゃないんじゃないの」と言うと「いやあ、殉教の賜物と独身の賜物は、死んでからじゃないとわからないと思うよ」と言う。 そんなことを口にする友人宣教師は、今日も男顔負けにガンガン宣教している。いったいこの人にぴったりの男性って、どんな人なんだろう? そこで理想の男性を訊ねると、ノートを持ってきて言う。「21項目あるんだよね」「21項目!? 信仰によって掲げているの? 夢見る“夢子”なんじゃないの?」「こういうことは具体的に項目を挙げなくちゃ」。まあ、ここは、信仰深い、としておこう。その理想とは「つまり“ピンポンパンのお兄さん”のように優しく、子ども好きなんだけど、素手でライオンを倒せるくらいにたくましい人ってことよ」とおっしゃった。えーと、ごめん。そんな男性、この世の中で見たことも会ったこともない。それって、マンガの世界じゃないの? ある女性は「神様はさ、石ころからでも私の伴侶を造ることができるお方だから」と言う。「そうだよね」と言いながらも、「まあ、それはそうなんだけど……石ころからって……」とコメントが続かない信仰の薄い私です。 でも、具体的に項目を挙げてみるのもいいかもしれない。私もノートを作って祈ってみようかと言ってみる。「えーと。神と人を愛する人で、霊に燃えて、主に仕えている人。全体の雰囲気は福山雅治みたいな人……」というと「もうね、そんな人は結婚してるから」と言われた。 えー? 神様って石ころからでも造れるんじゃないの?…
がじゅマル読み! no.13 今月の1冊>『それってどうなの!? クリスチャン・ライフQ&A』
『それってどうなの!? クリスチャン・ライフQ&A』 B6変 96頁 定価525円(税込)聖書って毎日読むべき? 教会に行きにくい……。人間関係、性、教会生活の悩み……。クリスチャン高校生にアンケートをとり、彼らの声を収録。スタッフたちがアドバイスする。ポップな装幀でプレゼントにも最適。がじゅものおじしない爆弾娘。マルネクラなりに明るく生きるがじゅの妹分。この本、すごくかわいいね。高校生のためのQ&Aだって。知ってるよ。もう読んだもん。ねえ知ってる? このキャラクターはがじゅマルのいとこなんだよ。ええ!?このヘンチクリンな4人のキャラクターが!?マルの血が濃いね。いやいや、がじゅの血でしょ。「洗礼って、なんで受けるの?」とか「旧約聖書と新約聖書の違いってなんなの?」とか、具体的でいいよね。がじゅは「付き合ったらどこまでしていいんだろう?」をドキドキしながら読んじゃったよ。で、マルはどこを読んだの?え、あ、うう~んと、Q1かな。Q1ね、えーっと、「どうしても嫌いで愛せない人がいる。……クリスチャンとして、……どうしたらいいんだろう……?」いや、え、違うよ違うよ、がじゅのことじゃないよ。がじゅのことは、もうあきらめてるから!…………。…