新約聖書よもやま裏話 第21回 ローマの「福音」!?

伊藤明生
東京基督教大学教授

伊藤明生 紀元前31年、ユリウス・カエサル(またはシーザー)の甥で養子でもあるオクタヴィアヌスが、アクティウム沖海戦に勝利した。敗北した敵は、アントニウスとエジプトのプトレマイオス王朝最後の女王クレオパトラであった。「もう少し鼻が低かったならば、世界の歴史が変わっていた」という「絶世の美女」、誉れ高き人物である。以前はユリウス・カエサルの、この時点ではアントニウスの愛人であった。アレクサンドロス大王の後継者たちの王国として最後まで生き延びたエジプトのプトレマイオス王朝は、こうして滅んだ。

 この勝利の結果、しばらく続いた内戦状態が治まり、オクタヴィアヌスは地中海世界を統治するようになった。形式上は共和制を貫き、元老院に主権を譲渡して、自らは「第一の市民」となった。そこで、正式には「元首政治」と称されるが、このとき実質的に帝政が始まり、オクタヴィアヌスは大版図を掌中にした専制君主となった。ヘロデ大王支配のユダヤも属国としてローマの間接統治下に組み込まれて、後にローマ総督が支配する直轄統治となった。

 この初代「ローマ皇帝」こそがルカの福音書2章1節の「アウグスト」である。アウグストまたはセバストスとは「尊厳な者」を意味する愛称であった。正式な名前は「ガイウス・ユリウス・カエサルの子・オクタヴィアヌス」である。紀元前27年以降の称号は「皇帝カエサル、神の子」であった。ここでいう「神の子」の「神」とは、死後に神格化された義父カエサルのことである。

ローマの平和

 アウグストがもたらした平和の結果、未曾有の繁栄がローマ帝国にもたらされた。少なくとも、帝国は、そう宣伝してアウグストの統治を美化した。確かに戦争に継ぐ戦争となると、人心は疲弊し、経済的な損害が大きくなる。とりわけローマ帝国の版図は壮大なものであり、ローマの軍隊を迅速に移動させるために帝国全土に道路網が完備された。「すべての道はローマに通じる」と言われた所以である。

 ローマは次第に大都市になり、多くの人口を抱えるようになった。市民を養う穀物はエジプトのナイル河畔で収穫され、船でアレクサンドリアから輸送された。交通網が発達し、平和が続けば、人々は商業活動に励んだため、経済活動が活発化して一財産を築き上げた人もいた。だから、「ローマの平和」をもたらし、人々に「幸福」(=経済的繁栄)をもたらしたのは、神の子アウグストで、彼こそが救い主だ、とローマ帝国は宣伝したのである。まさにローマ帝国の良き知らせ、「福音」であった。

「神の福音」

 アウグストのあと、テベリオ(あるいはティベリウス)、ガイウス・カリグラ、クラウデオと帝位に即いた。ガイウス・カリグラは、自分の像をエルサレムの神殿に安置すると言って聞かず、一触即発の危機となったが、シリヤ駐屯の軍隊が手間取っている間に、暗殺されて事なきを得た。

 クラウデオ帝は、キリスト教を巡ってローマ市内のユダヤ人たちが騒動を起こしたので、市内からユダヤ人を追放する勅令を発布した。とはいえ、大枠ではローマの平和、繁栄の時代が続いた。パウロが異邦人宣教のために、帝国東半分を縦横無尽に行き巡ることができたのは、ローマの平和のおかげであり、当時としては発達した帝国内の交通網に負うところ大であった。

 パウロがローマのキリスト者たちに手紙を書き送ったころは、悪名高いネロが皇帝となっていた。しかし、即位当初のネロ帝の治世は平穏無事で、「ローマの平和」がまだ続いていた。

 そして、ローマ人への手紙に「神の福音」「神の御子」と書き記したとき、ローマのキリスト者たちは当然のこととして、ローマの福音、神の子たる皇帝と対比されていると思ったことだろう。当時はまだ平穏なネロ帝治世であったためであろうか、ローマ人への手紙13章で「上に立つ権威」に従うようにパウロは奨めている。「上に立つ権威」にはもちろん、皇帝も含まれていた。

皇帝へ直訴し、ローマへ

 現代西洋の法体系の基礎ともいえるローマ法はローマ人たちの偉大な遺産に他ならない。基本的人権という発想は後々のものであるが、市民たちの権利はローマ法で手厚く保護されていた。裁判で有罪判決がないまま、市民が鞭で打たれることは禁じられていた。また、市民は、皇帝に直訴して面前で裁判を受けることできた。

 ユダヤのアグリッパ王やローマ総督フェストの前で裁かれたとき、パウロには何も悪いことが見出いだされなかった。しかし、ローマ市民権をもつ彼は皇帝に直訴し、ローマに護送されることになった。そしてユダヤ人からの危険を避けて、目指すローマにたどり着くことできたのである。