時代を見る目 152 父のアイデンティティ(2) 平安貴族と現代サラリーマン

笹岡 靖
ARKホームエデュケーション・サポート協会代表

 父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした(ルカ一五・二〇)。放蕩息子のたとえ話など聖書にある家庭の姿を見ると、父親の存在と責任が大きくクローズアップされている。私は、自分自身の問題として、長い間この父親の家庭責任ということが今ひとつ理解できなかった。父親が関わらないほうが家庭はうまくゆくという考えが自分の心の深いところにあることに、あるとき気づかされた。

 そう言えば、自分が子どものころ、父親と一緒に遊んだとか、何かを教えられたという体験は、数えるほどしかなかった。当時の気持ちは、父親ではなく、母親に向いていたように思う。記憶をたどってみても、何かを教えられたと思うのは、父親ではなく母親なのだ。たとえば、家のお金を盗んでチョコレートを買いこっそり食べていた私を見つけて、叱り、矯正してくれたのは母であった。

 女性が家庭の責任を担うという女系社会という伝統が、日本という風土に住むわれわれのDNAに深く刻まれているのではないかと思う。源氏物語などを見ると、日本の平安貴族たちの間で行われた結婚形態のひとつに、「通い婚」がある。男性は、女性(そして子ども)の住む家に自分の気の向いたときに「通って」ゆくという形式である。私は、現代家庭にもこの通い婚が根強く残っているような気がしてならない。男性は、「会社」という宮仕えの場から、夜の間だけ、妻と子どもの待つ家に通ってゆく。「家庭の問題の責任は、お前(妻)に任せてある」という言いわけが当然のこととして許されてしまう社会である。

 生活するためには、大別して、会社(組織)に勤めるか、自営業者となるかのどちらかしかない。会社組織に属するならば、退職金や年金など手厚い保障がある。しかし、会社という家庭と切り離された環境で長時間を過ごさなければならない。会社勤めをすることによる損失は、父親が会社でやっていることや仕事で培ったスキルが子どもたちに伝達されないことであると思う。子どもは、家庭を通して働く訓練を受けたり職業意識を培ったりするチャンスを失ってしまったのではないか。父親の働く姿が家庭の遺産として残せない時代となっている。

 放蕩息子のたとえ話は、父と息子とが良い関係を形成することが決して容易ではないことを示している。日本の家庭に父親の姿が見えるようになるために、乗り越えなければならないハードルは高い。