月刊いのちのことば

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top > 検索結果: 2015年12月号

時代を見る目 255 希望ある明日に向かって [3] 未来を創る国際協力

片山信彦 ワールド・ビジョン・ジャパン 事務局長 ワールド・ビジョン・ジャパンが支援しているモンゴルの事業地を訪問し、ウランバートル郊外のゲルに住んでいる母子を訪ねました。そこに住む9歳の女の子は知的・身体的な障害を持っています。ゲルの中央のマットの上に寝ていて、時折寝返りを打ったり手を動かしたりしますが話すことはできず、唸るような声を出すだけです。さぞお母さんは落ち込み、疲れ、苦労しているのだろうと心が苦しくなりました。 しかし、意外にもお母さんは明るく笑いながら、「もちろん大変です。疲れます。でも、この子を育てるために多くの助けを頂き、育てる方法を教えてもらい、何より日本の方々の励ましが元気のもとです」と。これこそが国際協力の原点だ!と思いました。困難な中にあっても、前に進もうと思う人々に寄り添いながら支援を提供する。そのことで途上国の方々だけでなく、私たちも元気をもらうことができる。それが私たちにできる国際協力です。 * * * 国際協力は、政府が行う政府開発援助(ODA)や国際機関が行う活動、私たち市民一人一人が直接支援に参加できるNGO(非政府機関)があります。NGOの支援の特徴は、非営利で直接人々に届く、市民が市民を助ける働きといっていいと思います。一人の力は小さくても一人一人が集まるときに大きな力になります。「何もかもはできなくても、何かはきっとできる」これはワールド・ビジョンの創設者、ボブ・ピアスのことばです。 直接市民が係わることで途上国の人々の生活の実際を知ることができ、その生活の変化も見ることができます。その結果、自身の視野が広がり日々の生活も変わるきっかけになります。本当の豊かさとは何かを味わうこともできるでしょう。 これからの日本は世界の中で歩まなければなりません。そのために国際化の必要があらゆるところで叫ばれています。国際化とは外国語を話せるとか、海外に行ったことがある、ということではなく、海外の人々の生活や文化を理解し、相互に助け合っていく中で自分の生活や生き方を変えていく中で育つものではないでしょうか。まずは、私たち自身の内なる国際化が第一に必要なのだと思います。市民一人一人ができる国際協力に取り組むことが、開かれた希望に満ちた未来を築く一つの鍵になると信じています。 * 大きなテントのような家。上下水道はなし。 ■ ワールド・ビジョンは、キリスト教精神に基づいて世界の子どもたちのために、開発援助、緊急人道支援、アドボカシー(市民社会や政府への働きかけ)を行う国際NGOです。…

日本人にとって、イエスとは誰なのか 漁師さんの本音

守部喜雅 クリスチャン新聞編集顧問 漁師さんの本音 日本人にとって、イエスとはどのような存在であるのか―この究極ともいえるテーマを考えるうえで、昨年、宮城県の牡鹿半島の被災した漁村で体験した出来事から話を始めてみたいと思います。 その夏の夜、漁師さんの頭ともいえる人の自宅で、被災した村の漁業をいかに再建するかが話し合われていました。被災して三年目を迎えていました。ようやく、ワカメや牡蠣の養殖が再開され、それをどう軌道に乗せるかが大きな問題となっていたのです。 * 話し合いは、午後九時まで続きましたが、それでお開きにはならず、そこから、「聖書タイム」が始まったのです。この漁村が被災して以来、ほぼ週の半分は、この村に通い続けた牧師が、ボランティア活動とともに、一年前から、強い信頼関係で結ばれた漁師の人々と一緒に聖書を読む会を始めていたのです。それが「聖書タイム」です。 筆者が参加したときには、ルカの福音書19章をみんなで輪読、まず、牧師が教えるのではなく、参加者全員に配られた新約聖書を手に、自分の感想を自由に語り合います。「どうして、ザアカイさんは木に登ったんだべ」といった質問も出てきます。どんな質問にも笑ったりしてはいけません。そのとき、初めて聖書を開いた漁師さんもいるからです。 ニコニコしてそのようすを見ている牧師も、上から目線で説教することはありません。すべての人が聖書から直接学ぼうという雰囲気は感動的でした。 * 会も半ばになった頃、頭が突然発言したのです。 「おれさ、イエス様が神様ちゅうことは分かるんだ。だけんど、イエス様がどうして、一番の神様かが分かんねえ」 これには驚きました。頭は、日本人の精神性をみごとに代弁していたのです。日本には、偉人が神になるという精神風土があります。明治天皇に殉死した乃木将軍は、その死後、神として祀られて乃木神社ができ、徳川家康を祀るためにできた日光東照宮が、今も人々が拝む聖域になっています。漁師の頭にとっても、イエスをそのような偉人の一人として、神として崇めることに抵抗がないのです。 面白いことに、その漁師さんの自宅には、当然、海の神を祀った神棚があるのですが、牧師からイエス様のことを教えられて以後、その神棚の横に新約聖書がお供え物のように置かれていました。頭は、イエス様がすばらしい方とは認めても、その方が、唯一の神であり、唯一の救い主ということが分からないのです。 しかし、少しだけですが希望はありました。その「聖書タイム」が終わる頃、頭が、しみじみと言った言葉が忘れられません。 「おれさあ、イエス様のこと、もっと知りてえんだ」 日本人は寛容か? 「日本では誰でもその想像に委せて、神様を造ることが自由にできる。宗教上、信者相互の寛容が非常に大きいのもこうした結果であって、一神社内に、往々異なった色々の神が、互いに隣り合って祀られてあったりする。従って私は、もし日本人が、歴史上キリスト教徒のことについて、何も知らないならば、彼等は平気で日本の神様の傍にキリストの像を祀ったであろうと信ずる。私は或る時、一人の日本人が、彼は喜んでキリストの有難さを信ずるが、しかし、だからといって、キリスト教徒の優越を信ずることはできないと語ったのを聞いたことがある」(『長崎海軍伝習所の日々』平凡社、一六一頁)。これは、一八五七年、長崎海軍伝習所の教官として来日したオランダの海軍武官カッテンディーケが、その回想録に残していることばです。彼は、勝海舟に信仰的影響を与えた人物で、作家の司馬遼太郎は、カッテンディーケが勝に与えた影響は、坂本龍馬の人生にも受け継がれているとさえ語っています。 彼は、日本に来て、日本人の寛容さに驚きます。しかし、それは、日本には相対的世界観しかなく、それは絶対的真理を求めることを困難にしている精神風土であることも見抜いていたのです。ここに、牡鹿半島の漁師さんが、いみじくも言った、「イエス様が一番の神様かが分かんねえ」ということばに符号するといえましょう。 イエスとの出会い ここで、筆者自身がどのようにしてイエスと出会ったかについて述べてみます。十九歳のとき、音楽会と間違えて教会の集会に迷い込んだわたしは、そこで、初めて、イエスのことばに出会います。 「わたしが、道であり、真理であり、いのちなのです」 伝道集会の会場に掲げられた横幕に書かれていたこのことばは、初めての者にはかなり刺激的でした。こんな大げさなことばを言えるのは二種類の人間だけだとも思いました。一種類めは世界一のペテン師、もう一人は、もし神が存在するなら、神のような人物なら、こんなことばも許される。 イエスはいったい何者なのか。当時、宗教に関心のなかった私ですが、さすがに、イエスを世界一のペテン師とは思いませんでした。では、イエスは神なのか、それも分からないままに、しかし、このことばの権威に圧倒されたわたしは、イエスを求める旅に出たのです。そして、わたしとイエスを結びつけるキーワードを発見したとき、わたしの信仰者としての歩みが始まりました。キーワードとは何か。それは「わたしは神の前に罪人である」ということです。 言い換えるなら、「自分は救われなければならない罪人である」と分かったとき、イエスを救い主として、わたしの人生の主として受け入れ、このお方に従っていく道を選び取ったのです。イエスとは、人間の歴史上現れたたぐいまれな偉人としてではなく、このお方以外に救いうる名は誰にも与えられていない、そのような唯一の神、救い主として信じ、愛するとき初めて、わたしたちが“キリストに出会う”ということが実現するのではないでしょうか。拙著『キリストに出会う本』(フォレストブックス刊)は、そのような問題意識からまとめた小冊子です。   『キリスト伝』の魅力 最近、五十五年前に読んだ『キリスト伝』を再読して驚いたことがあります。この本は、イギリスの牧師ジェームズ・ストーカーが十九世紀末に書いた『キリスト伝』(村岡崇光訳・いのちのことば社刊)です。何に驚いたかというと、当時は、信徒向けのキリスト伝と理解していたのですが、今回、村岡崇光氏の改訂訳を読んで、これは、教会内で読まれるだけでなく、魅力あるキリスト教文学として、一般の人々にもぜひ読んでほしい一冊だということです。 もちろん、キリスト伝ですから、新約聖書に沿って物語は描かれています。しかし、この本の魅力は、現代人にも通ずる人間が持つ悲しみや罪を追究しつつ、人間イエスが十字架に死んだのは、まさにその人間の罪ゆえだったことをみごとな物語として提供していることです。文学としての力は、キリスト教に無関心な人々にも大きなインパクトを与えるに違いありません。 本文の中で、引用したい箇所は無数にありますが、ここでは、最後の結語の一部分を紹介して終わりたいと思います。…

ブック・レビュー 夫婦ともに学ぶことができる

大嶋裕香 鳩ヶ谷福音自由教会 教会員 『痛おもしろ結婚塾―相手がわかる! 自分が見える?』 水谷 潔 著 B6判 1,000円+税 いのちのことば社 結婚、子育て、家庭形成について教会や教育機関で講演している著者。「痛おもしろい」というコンセプトのもと、夫婦の「誤解、不可解、行き違い」について、またその改善策について語られた一冊です。結婚を願っている方や結婚前のカップルはもちろん、すでに結婚生活に入ったもののあきらめの境地に入っている夫婦も、一読して「入塾」してみたなら、結婚生活への理解が深まることでしょう。 第一部「残念な夫にならないために」、第二部「妻へのチャレンジ」、第三部「つまづいても、歩み続けるために」、第四部「違いに向き合い、互いに成長」と、夫側妻側両方のアプローチがなされているので、夫婦ともに学ぶことができます。著者が何より願っているのは、「この話は主人に聞かせてやりたい」とか、「妻が変わってくれたらいいのに」などと、相手が変われば改善するだろうと思う心の持ち方を変えることではないでしょうか。読み進めているうちに、相手が変わることへの期待ではなく、まず自分が変わることで、夫婦関係が良好になるということの気づきを与えられると思います。ですから、自らを省みる「痛い」部分もあるのですが、著者の軽妙な語り口と「おもしろ」例話などが緩衝剤となって、「痛い」だけの読後感ではありません。 私が最も教えられたのは、愛の本質についてです。「コリント人への手紙第一、一三章によれば、愛の本質の第一は『寛容』です。これは『遅く怒る』という意味だそうです。……簡単に怒って相手の信仰を責め、信仰上の欠点を理由に相手を受け入れようとしないなら、それこそ、信仰上の課題です。先に自分自身の課題を解決してから、相手の課題を考えたほうが、夫婦のためでしょう」(一○一頁)。 信仰のことで夫を責めることはほとんどありませんが、早く怒るのが得意な私は「寛容」な妻になりたいと、心から思いました。…

ブック・レビュー 在日三世に見えてきた「日本の自然」

犬養光博 伝道師 『十字架のある風景』 崔 善 愛 著 B6判 1,500円+税 いのちのことば社 「私は日本がどんな国であっても、私をどんなに苦しめても、日本は私が最も愛し、なつかしく思う国です。日本が私を追放しても、私は最後まで愛しつづけます」(一〇一頁) 。一九八六年十月、指紋押捺を拒否し、再入国不許可のままアメリカ留学中の崔善愛さんから届いた意見陳述書の一節である。 お父さんの崔昌華先生が涙を流しながら代読された。善愛さん二十六歳。 その善愛さんが最近は、身の危険を感じて大学教授の職を捨てて、カナダへ移住した「在日」の親しい友人から、「いよいよ(命)の危険を感じたら、カナダに一時避難しておいで」と言われて、せつなくて何も言い得なかったと、書かれる。 Ⅰの「私の風景」では「小倉での日々」「小倉の風景」と題して「母のお腹にいたときから讃美歌を聞き」、「そのすべてが父の信仰告白であり、思想表現だった」崔昌華先生の説教を毎週聞いていた時代が語られ、それが指紋押捺拒否、再入国不許可のままのアメリカ留学等の経験を通して「『国家』の風景」に移っていく。その経験から見えてきたものがⅡの「日本から見える風景」である。 「私の感性は日本の自然によってつくりあげられたので、私を愛することは、日本を愛することだ」と冒頭に引用した意見陳述書は続くのだが、善愛さんが感じておられる「日本の自然」は日本人が感じている「日本の自然」ではない。在日三世の善愛さんが体を張って生きる中で見えてきたものだ。 しなやかで、懐かしい文章でありながら、日本人に対する厳しい問いかけが随所に込められている。小倉の何気ない風景が著者の深まりに応じて一つ一つ語り始める。そして日本の風景として、今はっきり著者に見えているのは天皇制であることを著者は指摘してやまない。でもそれも含めて『十字架のある風景』なのだ。…

CD Review ◆ CD評 こころのメロデイ

牧口 望 みつわ保険サービス株式会社 代表取締役会長 日本聖公会 石橋聖トマス教会 教会員 「自分が存在していることを感じるのは、ほとんど健康でない人だ。健康は、我々を我々の外に連れて行き、病気は、我々を我々の内に連れ戻す」このCDを聞いていて、メーヌ・ド・ビラン(フランスの哲学者)のことばを思い出していた。 「病むことによって、何か大いなるものに出会う。そこに音楽があった」 「あなたの人生を支えたこころのメロデイを聞かせてください」森祐理さんのリクエストに「モリユリのこころのメロディ」リスナーが応えた。十一人のエピソード。同じ体験はないけれど、自分に置き換えて感じることができる。苦難、悲しみ、和解……。その時に出合った映画音楽、賛美歌……。森祐理さんが読み、彼女が歌う。そのストーリーに涙があふれます。私は流した涙の分だけ、心が洗われるような気がするのです。 災い、非難、逆風はみんな私を避けて行ってほしい。できれば幸運、賞賛、順風の中で暮らしていたい。そのための努力は惜しまない。歳を重ねて、普通で良いという心境にはなったものの、相変わらず、マイナスはイヤだと思う私である。 いつも心穏やかでいたいと願っているが、時に、心に波が立つ。その結果、周りと摩擦が生じてしまう。落ち込んで、辛い思いをして、初めて自分を振り返ることができる。病まなければ得ることのできない、祈り、謙虚さ、誠実さ、そして、神との出会いがある。苦しみがなくなることはない。しかし、状況は変わらなくとも、苦しみが苦しみでなくなることもある。このCDを手にされた方は、安らぎを得られることは間違いないであろう。 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11・28)神様に呼応した作品である。 「こころのメロディシリーズ Vol.1―祈れないあなたのために」 森祐理 全10曲 2,500円+税 制作・発売元 ライフ・クリエイション TEL.03-5341-6927(48743) <収録曲>1.サウンド・オブ・ミュージック/ 2.いつくしみ深き/ 3.翼をください/ 4.この日は主が造られた/ 5.思い出のグリーン・グラス/ 6.慕いまつる主なるイェスよ/ 7.手のひらを太陽に/ 8.馬槽の中に/ 9.花は咲く/…

What’s New 「愛の風がきこえる」コンサート&
「モリユリのこころのメロディ」第1回の「リスナーの集い」報告

礒川道夫 ライフ・クリエイション ディレクター 「心に励ましが必要な人はたくさんおられるだろう。」そんな要望にお応えする2枚のCDがリリースされ、発売記念に関連したイベントが行われた。 一つは、紫園 香さんのCD&BOOK「愛の風がきこえる」発売コンサート。 紫園 香さんは、東京藝術大学を卒業し、渡欧してフルートの巨匠M.モイーズ氏に師事、プロのフルーティストとして世界中で活躍している。その一方で「SIONの風プレイズ・ミニストリー」を立ち上げ、音楽を通してキリストの愛を伝える働きをしている。 書籍の『愛の風がきこえる』が9月に発売になった。彼女の生い立ちから現在にいたるまで与えられている使命の証しをまとめた本で、CDも同時に発売され、本のイメージをもとに選曲されている。 9月19日に行なわれたコンサートは、2回とも満席。本を朗読しながら、CDに入っている曲を紫園 香さんが演奏するプログラムで、聴いた参加者を感動で満たしていた。 成功者としてのイメージがある彼女は、常に前向きに生きているように思えたが、本の帯を見て驚いた。「試練という穴が空いてそこから神様のやさしい笑顔が見える」とあった。 八方ふさがりの体験の中から神の愛に出会った証しに感動した方も多かったようで、感銘を受けた多くの方がサインを求めて並んでいた光景は大変印象的だった。 * * * 森 祐理さんのラジオ関西の番組「モリユリのこころのメロディ」「リスナーの集い」が9月26日、神戸の風月堂ホール開かれ、CD「祈れないあなたのために」が紹介された。もともとこのCDは、この番組を聴いて、リスナーを励ます番組スタイルでCDを作りたいとの願いから始まった。全国からリクエスト曲と証しを送っていただき、森 祐理さんが朗読して歌うという構成で制作した。 当日、曲が選ばれたKさんが会場に来られ、苦しみの中でも主を見上げて生きている証しをした。そして彼女を支えた曲「翼をください」をみんなで合唱したのだが、感動で涙が止まらずにいたのは私だけではなかったようだ。 今困難の中にいる皆様に、ぜひこの2枚のCDを聞いていただき、「明日も、もう一日生きてみよう」と思っていただけると感謝である。 問い合わせ : ライフ・クリエイション(いのちのことば社) Tel.03-5341-6927 Fax.03-5341-6928 E-mail : lk@wlpm.or.jp…

ふり返る祈り 第3回 不安と恐れ

斉藤 善樹(さいとう・よしき) 自分は本物のクリスチャンではないのではないかといつも悩んできた三代目の牧師。 最近ようやく祈りの大切さが分かってきた未熟者。なのに東京聖書学院教授(牧会カウンセリング他)、同学院教会牧師。 恐れるな。わたしはあなたと共にいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。 イザヤ書41章10節 神様、私は何を恐れているのでしょう。先が見えない不安でしょうか。人から批判される恐れでしょうか。自分が傷つけられる恐れでしょうか。その恐れゆえに、私の心は縮こまり、さまざまなことを先延ばしにしています。けれども恐れは消えません。主よ、すべてはあなたの御手の中にあります。世の何ものもあなたの愛から私を引き離すことはありません。どうぞ、あなたと共に今、私の道を歩ませてください。 恐れなく一歩一歩前に進ませてください。一歩進むごとにあなたの励ましと慰めがそこにあります。 本当は私たちは何が恐いのでしょう。真に恐れているのは何でしょうか。心の恐れの大きな部分は、人への恐れによって占められています。それは人があなたを見る目であり、あなたを評価する声です。人は自分をどのように見ているか気になります。彼らを満足させるようなことを自分は持っているだろうか気になります。自分は人に批判されないような行動をとっているだろうか。あなたは大きな声で人から怒鳴られたことはありますか。悪口を言われたことがありますか。無視されたことはありますか。叩かれたり殴られたりしたことはあるでしょうか。人間はそういうことに麻痺することはあっても、慣れるなんてことはありません。その度にあなたの自尊心は傷ついています。そして人への恐れが蓄積されます。 * 批判はあなたを傷つけます。建設的な批判でさえあなたを落ち込ませるなら、憎しみと怒りをぶつけるような非難はどれだけあなたを傷つけることでしょう。ある人が苦手ですか。その人の姿を見ると不安になりますか。その声はあなたを動揺させますか。その人のあなたへの評価があたかもあなたの存在価値を決定するように感じていますか。その人から愛されないなら、あなたは自分に価値がないように感じているのではありませんか。その人があなたのことを喜ばないならば、あなたのしていることは無意味だと感じるのですか。あなたは不本意ながらも彼らにへつらうことばや態度を取ったりします。その後、惨めな気持ちになるのです。あなたの恐れているのは、そのような人の目や声があなたを無価値にすることなのです。あなたは時に怒ったり、言い返したりします。けれども空虚感は残ります。 あなたは幼いとき、親に叱られたことがありますね。どんな気持ちだったでしょうか。それはそれは悲しく、親に愛されていないかのように打ちのめされたのではないでしょうか。何とか親に愛されたい、喜ばれたいと思うけれどそれが出来ない自分に悩んだことはないでしょうか。あなたはいつでも人から愛されること、喜ばれることを望んできました。けれども、もしあなたがその願望だけに自分の人生を終始させていたら、その願望以外のことは出来なくなってしまいますね。 あなたは日毎に、まず神様によって愛されていることを知らねばなりません。神のあなたへの愛は、人の非難や褒めことばに関係なく、絶えずあなたに注がれ、あなたがあなたであることを神は喜ばれています。そして、あなたは人を喜ばせることよりも神の喜ばれることを優先するように望まれています。あなたは人のことばに真摯に耳を傾けねばなりません。けれども人のことばが、神のあなたへの愛を揺るがすことはありません。 * 私たちは時にはっきりとものを言うべきことがあります。人にとってはあまり聞きたくないことを敢えて話さなければならない時があります。人に喜ばれること、愛されることを常にあなたの優先事項にしていたならば、人があまり喜ばないことは語れないでしょう。 私たちは人の目の中の塵をとやかく言う前に、自分の目の中の梁を何とかせねばならないことは事実です。けれども聖書は知恵を尽くしてお互いの過ちや罪を戒めることを命じています(コロサイ3・16)。ですから、私たちは自分への戒めを素直に受け入れつつ、神からの愛を土台にして、愛をもって語るのです。あなたがもっとも見据えねばならないのは、あなたの内にある恐れの心そのものです。もう一度お聞きします。あなたの本当に恐れているものは何でしょうか。…

「ダビデの子」イエス・キリスト 最終回 「倒れたダビデの幕屋を」

三浦譲 日本長老教会横浜山手キリスト教会牧師、聖書宣教会聖書神学舎教師 その会議の中でペテロ、バルナバとパウロ、そしてヤコブが語りますが、最後のヤコブが語る中に「ダビデの幕屋」ということばが登場します。 「ダビデの幕屋」 神が異邦人をも救いへと招き入れていることを語る預言書として、ヤコブはアモス9章11―12節を引用します(使徒15・16―18)。 16この後、わたしは帰って来て、 倒れたダビデの幕屋を建て直す。 すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、 それを元どおりにする。 17それは、残った人々、すなわち、 わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、 主を求めるようになるためである。 18大昔からこれらのことを知らせておられる主が、 こう言われる。 近年、この「ダビデの幕屋」を「終末的な神殿」の意味に解する学者たちもいますが、やはり伝統的な理解にしたがって「ダビデ王国」と理解すべきでしょう。 「倒れたダビデの幕屋を建て直す」、「廃墟と化した幕屋を建て直し」というときの「建て直す」(「アノイコドメオー」というギリシヤ語)は、エレミヤ18章9節の「建て直す」と関連があります。エレミヤ書で「わたしが、一つの国、一つの王国について、建て直し……」と神が言われるとき、「建て直す」のは「一つの王国」でした。また、「それを元どおりにする」の「元どおりにする」(「アノルソオー」というギリシヤ語)は、Ⅱサムエル7章13節(「わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる」)の「堅く立てる」(ギリシヤ語訳では「回復する」)と関連があります。やはり神がそこで堅く立てるのは「王国」でした。ヤコブはアモス9章11―12節を用いて、「ダビデの幕屋」、すなわちダビデ王国の回復に異邦人も参与するという神の約束について語ったのでした。 「ペテロ」と「パウロとバルナバ」と「ヤコブ」 この会議においてペテロ、パウロとバルナバ、ヤコブの四人の教会指導者たちが福音理解において一致していました。つまり、異邦人も含めて、人は律法ではなく信仰のみによって救われるという福音理解の一致を見ます。 ペテロとパウロは、それぞれに別の場所で語るときも、ダビデについて言及します。ペテロは詩篇16篇を用いて、「彼(ダビデ)は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです」(使徒2・30)と、新たなダビデ王国について語ります。パウロはピシデヤのアンテオケでⅡサムエル7章を背景にした説教の中で語ります。「ダビデは、その生きていた時代において神のみこころに仕えて後、死んで父祖たちの仲間に加えられ、ついに朽ち果てました。しかし、神がよみがえらせた方は、朽ちることがありませんでした」(使徒13・36―37)。やはり、新たなダビデ王国について語っていると見ることができるでしょう。 * ルカ24章で、「わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就する ……」(44節)というイエスのことばがありました。そのとおり、使徒の働きで語られるイエスに対するユダの裏切り(使徒1・16―20)、イエスの受難(使徒4・25―28)、そしてイエスの復活(使徒2・25―32、13・33―35)と昇天(使徒2・33―35)については、すでにダビデのかかわる詩篇において預言されていました。今回は、これに加えて、ダビデの王国にまさるイエスのさらにすぐれた王国(使徒15・15―18)が預言書において語られていたと見ることができます。 このシリーズでは新約聖書において旧約聖書がどのように用いられているのか、とりわけ旧約聖書の人物が新約聖書においていかに用いられているのかということを考えるために、特にダビデという人物に焦点を当ててきました。アブラハムは「ユダヤ人たちの父アブラハム」といった文脈で登場し、モーセは律法との関係で登場するとき、ダビデは常にイエス・キリストのことを指し示していました。ゆえに、ペテロは「彼(ダビデ)は預言者でした」(使徒2・30)と語るのでした。 1 例えば、R. Bauckham, “James and the Gentiles…

しあわせな看取り
―果樹園の丘の訪問看護ステーションから 第6回 痛みと罪の赦し

岸本みくに 惠泉マリア訪問看護ステーション所長 札幌キリスト召団 余市教会員 大阪、堺市生まれ。 幼い時に父を交通事故で亡くし、母の、「手に職をつけ早く自立するように」との教育方針で、子どもは3人とも医療系に進んだ。卒後15年間大阪の淀川キリスト教病院に勤め、その後、地域医療や福祉、キリスト教の共同体などに関心を持ち、各地をうろうろ。2008年より現在の惠泉マリア訪問看護ステーションに勤務。現在同ステーション所長。北海道に住んで20年、大阪弁と北海道弁のバイリンガル。 のり子さん(仮名)は、乳がんが肝臓、肺、骨に転移した六十八歳のクリスチャンの女性です。抗がん剤治療をやめて緩和ケアに切り替えたときに、訪問看護が始まりました。そのときすでに、るい痩がひどく、誰かにつかまらないとひとりでは歩けない状態でした。この方にはそれから半年、看護師として寄り添いました。 身辺整理はすっかり済ませて旅支度のできたのり子さんですが、それ以外にいくつかの未完の仕事がありました。和解の仕事です。家族や、教会の人たちとの関係のことです。私は、離れて暮らしている一人息子さんを呼ぶことを勧めました。「もうお別れは済ませているから必要ない」という返事でしたが、息子さんがお母さんとの関係で寂しい思いをし、傷ついていることを周囲の人たちから聞いていました。親子の関係修復は、旅立つのり子さんだけでなく、息子さんのためにも必要なことでした。私はのり子さんに、もう迷っている時間はないこと、多くのことを話せなくてもいいから、一言「お母さんはあなたのことを愛してるよ」とだけ言ってあげてほしいとお願いしました。 訪ねてきた息子さんは、お母さんのそばで一晩語り明かされました。そして翌日晴れ晴れとした顔で帰っていかれました。互いに何を話されたのかは分かりませんでしたが、後日、葬儀の席で息子さんが「いろいろ苦しいことや道に迷うことがあったけど、あなたがいたから私は生きてこれたのよ」とお母さんが言ってくれたと教えてくれました。 * のり子さんには執拗な背中の痛みがありました。強い痛みの発作が頻繁に襲ってきて、そのようなときはしばらくベッドでうずくまって全く動けません。のり子さんの主治医は、外来で硬膜外留置チューブ(背骨の中に入れる細いチューブ)を入れ、モルヒネと麻酔薬をそこから二十四時間持続注入する装置をつけてくださいました。その装置の途中には押しボタンがついていて、激痛の発作が起こったときはそれを押すと注射薬注入のスピードが一瞬早送りとなり、痛みを和らげてくれます。この装置は安全のため一度押すと一定時間は作動しないようになっています。ところが、のり子さんは痛みのいかんにかかわらず、早送りボタンを離そうとせず、何度も押し続けるのです。朦朧としている状態でのこの行動には、何か痛みとは別の理由があるようです。 * 私たちはその姿に彼女の中にある何がしかの不安と恐れを見ました。彼女と神様の間に何かまだ解決していない問題があると感じました。でも、「もう天国に行く準備はできている」というのが、いつもの彼女のことばで、それ以上心を開こうとはしません。 この衰弱している状態で、心の奥深くにある問題に切り込むのはもう無理だし、酷だ、と牧師が言いました。だから「今まで気づかずに犯した罪もお赦しください」という祈りに導くように、との助言でした。 翌日、のり子さんの所に行きました。苦しそうな顔ののり子さんがいました。「つらいですか?あまり苦しいようなら先生に鎮静剤を出していただくようにお願いしましょうか」そうしてほしいという返事でした。神様が私の背中を突っついて「今が時です」とおっしゃいました。勇気を振りしぼって聞きました。 「でものり子さん、天国に行く用意はできていますか」 「できているわよ!」といつもの返事でした。 「でも先生が、私たちには気づかずに犯している罪というものもあるから『その罪もお赦しください』と祈る必要があるとおっしゃっていましたよ」 彼女の表情が変わりました。そして「一緒に祈ってくれる?」と言いました。 それから二人で手を取り合って祈り、賛美しました。彼女の心にどんな変化があったのか、何が起こったのか、私には分かりません。でも、そのときからのり子さんは、痛み止めの早送りボタンを手放したのです。そのあと、介護についていたヘルパーが驚いて教えてくれました。「私に『私死ぬの。ありがとう、お世話になったわね』とおっしゃるのです。痛みもありません。何があったのですか」 のり子さんの最期の時が近いことを感じた私たちは、牧師にも来ていただくことにしました。のり子さんは先生の手を握り、「先生ありがとうございます。このままで逝きます」とおっしゃり、翌朝、静かに召されていきました。 後日、ヘルパーに、のり子さんと祈った「祈り」のことを話すと、その方はまた驚いて言いました。「罪が赦されると痛みも消えるのね!」…

恵み・支えの双方向性 第18回 迷惑な受け身

柏木哲夫 淀川キリスト教病院理事長 言葉にこだわっていると、それが方向性につながることがあります。日本語には自動詞と他動詞があります。“主語「が」~する”ときは自動詞、“目的語「を」~する”ときは他動詞となります。自分が動くので自動詞、他人を動かすので他動詞という覚え方もできます。「走る」は自動詞、「ほめる」は他動詞です。 言い方を変えると、「先生にほめられた」というように、受け身の形があるのが他動詞で、形がないのが自動詞とも言えます。「走る」には受け身の形がなく、自動詞です。 ホスピスで仕事をしていますと、「看取り」とか「看取る」とかという言葉によく遭遇します。「看取る」は他動詞です。誰々を看取るとか、誰々に看取られるとかの表現があります。このことに関して、私にとってとても印象的だったことを書いてみます。 放送作家の永六輔さんが『妻の大往生』(中公文庫、九一頁)に載せておられる俳句です。普段から永さんは奥さんより早く旅立ちたい、つまり、奥さんに看取ってもらいたいという希望を強く持っておられたようです。奥さんも永さんを看取るつもりでおられたようです。ところが、奥さんが癌のために永さんより早く亡くなられたのです。その時の心境を俳句にされたもので、 看取られるはずが看取って寒椿 という句です。すばらしい作品だと思います。 話を自動詞と他動詞に戻します。自動詞には受け身の形がないという原則については前述のとおりです。しかし、とても興味深い「迷惑な受け身」というものが日本語に存在します。たとえば、「雨に降られる」という表現です。「降る」は自動詞で、本来は受身形がないのですが、「降られる」という「迷惑な受け身」の形が存在するのです。ほかにも、「客に居すわられる」、「妻に死なれる」などもそうです。「妻に死なれる」は「迷惑な受け身」というより「困った受け身」と言ったほうがいいかもしれません。 このことを方向性という視点から見てみますと、他動詞は双方向性です。「私は彼をなぐる」は自分から他者へのベクトルであり、「私は彼になぐられる」は他者から自分へのベクトルです。 これに対して、自動詞のベクトルは原則として、一方向性です。「走る」を例にあげると、「私が走る」とか「犬が走る」とかのように主体から出るベクトルは一方向です。しかし、「迷惑な受け身」は双方向性を持っています。「雨に降られる」という場合、降られて困っている自分へのベクトルが加わります。 「迷惑な受け身」をもう少し詳細に見てみると、そのほとんどが主文に現れるという特徴があります。これが主文ではなく従属文に現れる場合には、迷惑性が希薄になるどころか思恵性が含まれるようになることもあるという興味深い現象が起こります。たとえば「楽しみにしていた花見だったが、途中で雨に降られた」の場合、受け身は主文に現れ、文字どおり迷惑になります。ところが「三日も雨に降られると、かえって充分な休養になる」のように主文ではなくて、従属文に受け身が現れると恩恵性が含まれます。 日本語は、ニュアンスを重んじる言語だと思います。それが「曖昧な表現」や「間接的な表現」を生むのではないかと思います。たとえば「死ぬ」というのは直接的表現で、日常生活ではあまり使われません。代わりに、亡くなる、逝く、息を引き取る、永眠する、他界する、永遠の眠りにつく、まかる、昇天(召天)する、往生する、事切れる、果てる、世を去る、旅立つ……等々、実に多彩な表現があります。 * 死に関する間接的表現という意味で、私自身の個人的な経験を述べます。ホスピスでの経験ですが、患者さんが「死を迎えられた」とき、「ご臨終です」と、いわゆる「臨終宣言」をします。ごく当然のようにそうしていたのですが、ある講演会で「臨終というのは死に臨むこと、すなわち、いのちが今終わろうとする間際の意味であって、死そのものではない」という話を聞いて、「なるほど」と思いました。辞書を引いても、そのように書いてあります。臨床の現場では「亡くなりました」という代わりに「ご臨終です」と、いわば間接的な表現をしてきたわけです。このことがきっかけで、しばらく「亡くなりました」と言っていたのですが、私自身にやや違和感があり、「ご臨終です」に戻しました。 言葉にこだわっていると、思いがけない発見があるという例の一つです。…

flower note 12 美しい葉の色

おちあい まちこ ~今月の植物~ ナンキンハゼ ナンキンハゼ(Tri-adica sebifera)は、トウダイグサ科ナンキンハゼ属の落葉高木である。以前はシラキ属に分類され、Sapium sebiferum の学名で呼ばれていた。種小名の sebifera は「脂肪のある」の意。 色とりどりのナンキンハゼの葉がハラハラと舞い落ちると、やがてアドベントがやってきます。「この1年の何と早かったこと!」とあれやこれやを思い返すのです。 ハートの形のこの葉は、赤、黄色だけではなく、緑、オレンジ、茶褐色、ワイン色などさまざまな色があります。前号では、樹木が冬の寒さをしのぐため、葉を落とす前に栄養素を分解し幹へと送り込む、見事な仕組みを取り上げましたが、今回は美しい葉の色について触れたいと思います。 秋に日照時間が短くなり、寒さが増してくると(8℃以下)、落葉樹は葉を落とす準備を始めます。5?6℃以下で紅葉が進みます。イチョウやブナ、カツラなどの場合は、葉の緑色のタンパク質クロロフィルが分解して、それまで隠れていた黄色い色素「カロチノイド」が現れます。カエデなどの赤はというと、光合成によって作られた糖は枝には流れず、葉に蓄積され、太陽光の影響で赤色の色素「アントシアニン」が形成されます。では色とりどりのナンキンハゼはどうでしょう。クロロフィル、カロチノイド、アントシアニンの色素がいろいろな割合で混ざり合っているため、1枚の葉でも部分によって色が異なります。サクラや柿の葉も同様、とてもきれいです。葉の色が変化した後、離層というコルク細胞が葉柄の付け根にでき、やがて葉が落ちます。 葉っぱには葉っぱの命があり、雨や嵐にも負けず、落葉のときまで与えられた場で一生を過ごすのだなあと、ナンキンハゼのハートのひとひらを手にするとそんな気持ちになります。「クリスマスがやって来ますよ!」と知らせてくれる樹でもあります。 1年間担当させていただいた表紙写真とエッセイは今号で最終回です。撮るよりも書くほうが大変でした。しかし、植物を通して私たちが他のすべての生き物と、月や太陽や水や…さまざまなものを共有して生きていること、互いに生かされていることを改めて感じつつことばにしていくことができた、豊かな時間でした。ありがとうございました。…

編集者より 42339

16回にわたった「『ダビデの子』イエス・キリスト」の連載も今号で最終回となりました。新約聖書において、旧約聖書がどのように用いられているのかを体系的に学ぶことができました。三浦譲先生、本当にありがとうございました。(碓井) 聖地を訪れた知人が、人生観が変わると熱く語ってくれました。自分もせめて本で体験しようと、9月に発売された『聖地の物語』を読みました。見たこともない空撮写真やわかりやすい解説で新しい聖書観を受け、満足。でもいつかは…(本多) 本誌へのお便りはこちらまで: publish@wlpm.or.jp 件名:いのちのことば編集部 〒164ー0001東京都中野区中野2-1-5 いのちのことば社4F「いのちのことば」編集部…

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