ブック・レビュー 在日三世に見えてきた「日本の自然」


犬養光博
伝道師

『十字架のある風景』
崔 善 愛 著
B6判 1,500円+税
いのちのことば社

「私は日本がどんな国であっても、私をどんなに苦しめても、日本は私が最も愛し、なつかしく思う国です。日本が私を追放しても、私は最後まで愛しつづけます」(一〇一頁)
。一九八六年十月、指紋押捺を拒否し、再入国不許可のままアメリカ留学中の崔善愛さんから届いた意見陳述書の一節である。
お父さんの崔昌華先生が涙を流しながら代読された。善愛さん二十六歳。
その善愛さんが最近は、身の危険を感じて大学教授の職を捨てて、カナダへ移住した「在日」の親しい友人から、「いよいよ(命)の危険を感じたら、カナダに一時避難しておいで」と言われて、せつなくて何も言い得なかったと、書かれる。
Ⅰの「私の風景」では「小倉での日々」「小倉の風景」と題して「母のお腹にいたときから讃美歌を聞き」、「そのすべてが父の信仰告白であり、思想表現だった」崔昌華先生の説教を毎週聞いていた時代が語られ、それが指紋押捺拒否、再入国不許可のままのアメリカ留学等の経験を通して「『国家』の風景」に移っていく。その経験から見えてきたものがⅡの「日本から見える風景」である。
「私の感性は日本の自然によってつくりあげられたので、私を愛することは、日本を愛することだ」と冒頭に引用した意見陳述書は続くのだが、善愛さんが感じておられる「日本の自然」は日本人が感じている「日本の自然」ではない。在日三世の善愛さんが体を張って生きる中で見えてきたものだ。
しなやかで、懐かしい文章でありながら、日本人に対する厳しい問いかけが随所に込められている。小倉の何気ない風景が著者の深まりに応じて一つ一つ語り始める。そして日本の風景として、今はっきり著者に見えているのは天皇制であることを著者は指摘してやまない。でもそれも含めて『十字架のある風景』なのだ。