ビデオ 試写室◆ ビデオ評 69 「パッション」と「ナザレのイエス」

『ナザレのイエス』
古川第一郎
日本キリスト改革派 南越谷コイノニア教会牧師

その中に投影される自分の影

 今月は、今日本中で公開中の映画「パッション」に触れながら、もう一度「ナザレのイエス」を振り返ってみます。ちょうど私も、「パッション」を観たところで、もう一度「ナザレのイエス」を改めて観てみました。

 「パッション」は、アカデミー賞に輝いた「ブレイブハート」の監督、俳優のメル・ギブソンが、12年もの構想歳月を費やして、約30億円という私財を投じて完成させた作品で、キリストの十字架を描いたものです。

 もし本当に私がそこにいたとしたら、一体誰の立場にいただろうか? イエスを殺す側か、それとも心を痛めている側にいるのか。いや、そんな単純な二者択一ではありません。母マリヤ、マグダラのマリヤ、ローマ兵、ピラト、クレネ人シモン、隣の十字架についていた犯罪人などが、それぞれの目でイエスを見ています。それぞれに距離があり、感情があり、それぞれの目に映るイエスの姿があります。

 ところで、メル・ギブソン自身が、一度だけこの映画に登場しています。どこに? 実は、イエスの手に釘を打ち込んだ人が、メル・ギブソン監督でした。「キリストを十字架につけたのは、ユダヤ人でもローマ人でもない。私だ!」ということを実際に釘を打ち込む役をすることによって、言いたかったのです。その告白のために30億円の私財を払ったとしたら、これは何と真剣な告白でしょうか?

 さて、このことを考えながら「ナザレのイエス」を見たとき、気を引いた人物が一人いました。それは、あの十字架刑の指揮をした百人隊長です。キリスト殺しのリーダーであった彼が、終わりに近づくに従って柔和な顔になり、母マリヤを親切にもてなし、最後には兜を脱いで、敬虔とも祈りとも言える姿になっています。

 実は彼は、かつて自分のしもべをイエスに癒してもらった人でした。イエスに助けられながら、自分は彼を殺す。ここに、私自身の姿を見ます。イエス様に愛されながら、彼を十字架につけ、彼の手に釘を打ち続ける自分。そんな悲しい自分に気づかされるのです。

 しかしイエス様は、そんな私のために、「ナザレのイエス」では十字架の上で、「パッション」では手に釘を打ち込まれた瞬間に「父よ、彼(ら)を赦してください!」と祈られます。十字架の下にいた百人隊長、釘を打ち込んでいたメル・ギブソン。その両方が、まさに私の影のような思いがします。あなたは、誰の中にご自分の影を発見するでしょうか?