連載 伝わる言葉で伝える福音 第 8 回「 神」ってナニ?
青木保憲
1968年愛知県生まれ。小学校教員を経て牧師を志す。グレース宣教会牧師、同志社大学嘱託講師。映画と教会での説教をこよなく愛する、一男二女の父。
日本人は「神」とか「神様」というキャッチフレーズが大好きである。二〇二一年の流行語大賞は、二十五年ぶりに広島カープが優勝したことを受けて「神ってる」であった。翌二二年は、ヤクルトスワローズの村上選手が大活躍したことを受けて「村神様」。それ以来、「神!」とか「カミ~」という言葉は市民権を得ていった。
かくいう私も、同志社大学で何度も「神」となったことがある。それは、授業に遅刻した学生に対し、「今回だけだよ」と伝えて出席扱いにしてあげた時のことである。その後、メールが届き、「青木先生は神です!」と感謝の言葉が伝えられた。これが一回目。さらに別の学期では、レポートの詳細を聞き逃した学生に対し、授業で用いたパワーポイントデータを送信してあげたことがあった。その時も「先生、神です!」と即レス。それ以来、「楽単(簡単に単位をくれる先生のこと)の青木」と巷では囁やかれていたらしいのだが……真偽のほどは定かではない(笑)。
ここ数年、特に若者たち(中高大学生から二十代の青年たち)の間で「神」という言葉が頻繁に用いられるようになっている。考えてみると、昔から「○○の神様」という表現は日本語として一般的だったし、このような言い回しを私たち日本人は、一種のリスペクト表現として用いてきた。その延長線上に昨今の「神」が位置づけられるとするなら、これはキリスト教界にとって「福音」(良き知らせ)である。
よく言われてきたことだが、古来日本で「神」と言うと、私たち人間を厳しくチェックする存在、怖いお方、というイメージがあった。その神(々)に対して畏敬の念を抱くことで自らの生活を律するという意味では一定の効果があるが、一方で、私たちの思いや葛藤を受け止めてくれる身近な存在とはなりえなかった。
しかし、学生たちが五十代半ばのおっちゃんを「神」呼ばわりすることからも分かるように、現代日本人にとっての「神」は、「親愛なる隣人=スパイダーマン」のような親しみやすい存在、そしてスーパーヒーローのような「ちょっと」優れた存在に変化しつつある。これは実に素晴らしいことだ。聖書を通して私たちが知る「神」と、見事に一致する。「やっと時代(現代日本)が聖書に追いついてきたか!」と思わされる。
クリスチャンならご存じのように、神様は「義なるお方」であると同時に「愛なるお方」である。そもそも福音的には聖書が語る神は、ある種の自己矛盾を抱えた存在となる。「義=正しさ」の第一人者であるなら、悪しき存在、汚れた人間を断罪しなければならない。しかし反対に「愛=受容」の第一人者であるなら、その滅ぼされるべき人間を弁護し、受け入れたいと願うことになる。
この葛藤を解決するべく、神は独り子イエス・キリストをこの地に送られた。この神の「掟破りギリギリの解決策」こそ、神の最も特徴的な一面となっている。
そう考えるとき、「神ってナニ?」と問われるなら、私は主をご存じでない多くの方にこう答えている。
「聖書の神様って、ある時は厳格な頑固おやじ、そしてある時は子煩悩なパパ。この二つの性質を同時に併せ持つ、私たちのお父ちゃんです」と―。
「神」が簡単に口の端に上る現代。だからこそ、伝えられる神概念がある。今までは「頑固おやじ的な神様」が強調されてきた。「神は愛なり」はとてもいいフレーズだが、少し高尚過ぎる。どこか厳格な神様イメージが付きまとうため、その後に語られる「愛」もどこかとっつきにくく、自分とは関係ないと思わせてしまうことになる。しかし「子煩悩パパ」のように親しみが湧く神様イメージが先行する昨今なら、真に聖書の福音が伝えたい「神」をリアリティ豊かに伝えることができるのではないだろうか?
神様は、「子煩悩なパパ、ときどき頑固おやじ」な存在です!