特集 次世代と平和を考える

世界各地で、今も激しい争いが続いている。平和構築の主体として若者世代への期待が高まる一方、戦争を直接経験していない世代にどのように平和への思いを受け継いでいけるのか。次の世代へ思いをつなぐ方法を模索する。


戦後「平和国家」とは何だったのか 時代の空気に流されないために

青山学院大学宗教主任・総合文化政策学部教授  森島 豊

「平和国家」の裏の顔

「時代の空気に流されない姿勢」を持つためには、流行や世論に左右されない軸が必要です。そのためには、時代を見抜くための知識と信仰が求められます。その一例として、日本の「平和国家」という言葉について考えてみたいと思います。
「日本は平和国家である」。この言葉に反対する人はほとんどいません。「絶対非戦」の立場も、「平和のための戦争」の立場も、政治的立場を超えて、多くの人が「平和国家」を掲げています。今日では、日本人を統合する象徴的な言葉となっています。私たちは「平和」という言葉を聞くと、自動的に良いものだと考えます。しかし歴史を振り返ると、その言葉は時に国家理念や戦争動員とも結びついてきました。
ところで、「平和国家」という言葉を最初に用いたのは誰かご存じでしょうか。実は、敗戦後最初の国会で開会の言葉を述べた昭和期の天皇裕仁でした。そして、その文章を作成し、「平和国家」という言葉を挿入したのは、当時皇族であり、敗戦後最初の首相となった東久邇宮稔彦王です。さらに、その背景には終戦詔書(玉音放送)の「万世の為に太平を開かんと欲す」という言葉が影響していました。「太平」は英語ではpeaceです。
この言葉を終戦詔書に挿入したのは安岡正篤でした。これは中国の故事から引用した言葉で、一人の君主のもとで争いのない状態を意味します。つまり、戦後の「平和国家」という理念の背後には、天皇を中心とした秩序を維持しようとする発想が含まれていたのです。安岡は戦後のインタビューで、「日本が降伏するのは勝敗の問題ではない、もっと高い道徳的立場からこうするのだ」と述べ、「『万世の為に太平を開かんと欲す』という言葉を入れる」ことで、天皇の道徳的権威を世界に示そうとしたと語っています(関西師友協会編『安岡正篤と終戦の詔勅』五四~五五頁)。
つまり、戦後の「平和国家」という言葉は、単なる反戦理念ではありませんでした。そこには、敗戦後においても「国体」を護持しようとする意図との連続性を見ることができます。国体とは、天皇を中心とする国家です。敗戦後、日本政府と国民にとって重要な課題は国体を守ることでした。「平和国家」とは、天皇がもはや危険な存在ではなく、むしろ平和の象徴であることを世界に示す言葉でもあったのです。

時代の空気の中の教会

しかし、この理念は当初、国民に広く浸透していたわけではありません。重要なのは、この理念を国民に広める役割を、賀川豊彦や日本基督教団が担ったことです。もちろん、私は彼らを単純に非難したいのではありません。なぜならば、当時のほとんどすべての日本人は天皇を愛し、国に尽くすことを名誉と考えていたからです。長く理解されてこなかったキリスト教会に対し、国家が協力を求めてきたことは、彼らにとって大きな喜びであり、誇りでもあったでしょう。しかし結果として、教会もまた時代の空気の中に置かれていたのです。
おそらく多くの方は、「平和国家」という言葉が天皇制護持と深く結びついていたことを初めて知ったのではないでしょうか。当時の人々も同じでした。むしろ、国家と平和のために良いことをしているのに、何が問題なのかと思ったことでしょう。「時代の空気に流されない姿勢」には、こうした背景を見抜く知識と信仰が必要なのです。

キリストの平和を求めて

ここまで日本の平和についての「知識」を紹介してきました。最後に、「信仰」に関わる聖書の「平和」について触れたいと思います。大事なことは、多くの日本人が愛する「平和」という言葉が、日本の外から来た言葉であり、明治期のキリスト教信仰に由来することです。しかし、その後この響きの良い言葉は、さまざまな使われ方をしました。
日本ではしばしば、「平和」が社会的調和や対立回避という意味で理解されてきました。しかし、聖書の平和はそれだけではありません。主イエスは言われました。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。」(マタイ10・34~36、新共同訳)
このメッセージは、日本社会が重んじる「調和」の価値観としばしば衝突しました。そのため日本では、「平和」が社会的調和の意味で理解されやすかったのです。しかも、その日本的平和思想は、天皇を中心とする共同体秩序を前提としていたため、民族や国家を越えて他者と共に生きる普遍的平和へとは十分に開かれませんでした。実際、大東亜戦争は、「八紘一宇」の理念のもと、天皇を中心として世界を一つに統合することで実現される「平和」を掲げて進められました。
しかし、聖書の平和は違います。キリストに従うとき、人は時に周囲との摩擦を経験します。聖書の平和とは、単なる衝突回避ではなく、贖罪の十字架によって神との和解を与えられた者が生きる他者との愛の関係です。だからこそ、キリストの平和は時として自国優先の国家や時代の「空気」に対して、不協和音となることがあります。
敗戦体験者は、国家が絶対的存在ではないことを身をもって知りました。だからこそ、不協和音となっても本能的に「戦争反対」を叫んだのです。その世代が少なくなりつつある現在、この感覚をどのように引き継ぐのかが重要な課題となっています。次世代に必要なのは、時代に迎合する「空気」ではなく、この平和を見分ける感性です。それは、私たちが誰に従って生きているのかを問うことでもあるのです。


平和を実現する者として、希望を掴み取るために

CWS Japan プロジェクト・オフィサー  五十嵐 望美
私は現在、認定NPO法人CWS Japan(Church World Service)にて、プロジェクト・オフィサーとして国内外で人道支援に携わっています。
私が平和やマイノリティの権利に関心を持ったのは、幼い頃から障害のある方々と接する機会があり、自分には見えていなかった困難を日常的に経験している人の存在について気づかされたことがきっかけです。その経験が、社会的に脆弱な立場に置かれる人が直面する障壁について考えるようになる原点となりました。また、中高生の頃は音楽を通じて、人種差別や戦争・貧困といった社会問題に関心を持ち、平和や人権について自分なりに考えるようになりました。
そして、東日本大震災を機に被災地に訪れ、ボランティアとしてさまざまな支援の現場に足を運ぶようになったことで、実際に現場に赴いて社会の課題を自分事として捉えることの大切さを実感していきました。

平和とは何か

「平和」と聞いて、皆さんはどんな状態・イメージを思い浮かべるでしょうか。
「戦争・紛争」については、多くの人が共通したイメージを持っているかもしれません。軍隊、銃、戦車・戦艦、空襲、核兵器(原爆)、過酷な収容所生活など……。
世界に目を向ければ、戦争は決して過去の出来事ではありません。ロシアによるウクライナへの侵攻、イスラエルやアメリカによる中東諸国への軍事攻撃など、今この瞬間も現在進行形で戦争が起きています。日本は幸い、この八十一年間は当事国として戦争を経験することなく「平和国家」として過ごすことができましたが、その間も少なからず安全保障をめぐる議論では軍備の強化が行われ、そして戦争の影響を多かれ少なかれ受けてきました。
私が現在働いているCWSは、世界三十カ国以上で国際的な人道支援を行うNGOで、支援している地域の中には戦争や紛争と隣り合わせの歴史を持つ国も少なくありません。たとえば、その一つであるアフガニスタンでは、一九七九年にソ連による軍事介入を経験し、二〇〇一年のアメリカ同時多発テロを契機とした米軍の侵攻など、幾度にもわたる戦争・紛争を経験してきました。
また、ミャンマーでは、二〇二一年のクーデター以降も現在進行形で内戦が続いており、三百万人以上の国内避難民と二十万人以上の人が国境を超えて難民として他国へ逃れています。たとえ、戦争が起きていない地域でも、隣国やはるか遠い国から難民として逃れて来て暮らしている人もおり、日本でもさまざまな地域から来た難民の人が暮らしています。
ここでさらなる問いが生まれます。「戦争がない」、「軍事的衝突がない」、「難民がいない」状態であれば、単純にそれを「平和」と言えるのでしょうか?
この問いに向き合うために、平和学の第一人者であるノルウェーの研究者、ヨハン・ガルトゥングの概念を紹介したいと思います。
ガルトゥングは、単に戦争や紛争がない状態を「消極的平和」と定義し、一方で「積極的平和」はそれにとどまらず、社会的正義・協力・統合が実現し、構造的暴力が取り除かれた状態と定義しています。構造的暴力とは、特定の誰かによる直接的な暴力・人権侵害ではなく、貧困・差別・不平等な制度や社会の仕組みそのものによって、人々が傷つき抑圧されている状態のことです。

脆弱な人々と構造的暴力

この八十年余りの間、日本社会では「消極的平和」を実現できたかもしれませんが、「積極的平和」が実現できていたと言えるでしょうか。残念ながら、そうとは言い切れないのではないでしょうか。
特に、私が考えたいのは、「もし今の社会で戦争が起きたとすれば、誰が真っ先に犠牲を強いられるのか」という点です。その答えは、戦争が起きる以前からすでに構造的暴力にさらされ、貧困や差別を経験してきた、社会の中で最も脆弱な立場に置かれている人々ではないでしょうか。
これまでの歴史を振り返っても、子ども、若者、高齢者、病気や障害を持つ人、女性、性的マイノリティ、人種・民族的なマイノリティなど、こうした人々の命と尊厳が戦争によって真っ先に脅かされてきたことは、明らかです。
特に、私がこれまで見聞きした戦争の語りや安全保障などの政策議論において、女性の声が置き去りにされてきた現状があると感じています。戦時性暴力が重大な戦争犯罪であり、起きた場合は裁かれるべきという認識が確立されたのもつい最近(一九九〇年代)のことです。その運動を支えてきたのが、かつて日本軍によって作られた慰安所に集められ、性奴隷の被害を受けた性暴力サバイバーである元慰安婦の方々の証言です。日本軍性奴隷サバイバーの一人である金福童ハルモニ(韓国の元慰安婦サバイバーの方を「ハルモニ(おばあちゃん)」と呼びます)は、人権活動家として生涯をまっとうして二〇一九年に亡くなりましたが、その活動や思いに触れてから私がたびたび励まされている言葉があります。それは、たとえどんなに絶望的な状況に置かれていたとしても、自らの力で「希望を掴み取ることができる」という言葉です。
昨今の次々と新たな戦争が始まっては収束の見えない現代社会を生きていると、平和を実現するという希望がどんどん遠くなり、見失ってしまうことで絶望を感じてしまいそうになります。しかし、幼い時に凄まじい性暴力を生き抜き、まさに生き証人として、次世代の平和のために精力的に人権活動に取り組んだ金福童ハルモニが発した「希望を掴み取って生きよう」という言葉は、絶望を感じやすい現在にとっても大切なメッセージとして響くのではないでしょうか。そして、十字架と復活というキリストの福音が示す希望のメッセージとも、深く響き合うように感じます。

平和を実現するために

昨今の戦争が次々と行われている状況を見ていて感じるのが、権力者が自国の「正義」「自衛」「平和」という名の下に、戦争や暴力を行使しているという現実です。その言葉の影で、誰かが犠牲にされていないだろうか。誰かの命や人権を踏み躙ることを前提にしていないだろうか、と問い続ける姿勢が必要だと感じます。
戦争を起こさないためにも、「消極的平和」を実現できている社会においても、構造的暴力にさらされ、命や人権を蔑ろにされてきた人々の声をちゃんと聞けているのか。そして、その人たちの声が汲み取られ、すべての命や尊厳が大切にされるような平和を目指すことが、「平和を実現する者」としての務めではないでしょうか。
しかしながら、平和を実現したいという願いはあるものの、その願いを形にするにはとても大きな壁のように感じてしまうかもしれません。けれども、「あなたにとって、平和とはなんでしょうか?」という問いを、隣近所の人同士で語り合い、聞き合うことから始めることが、平和を作り出す大事な一歩なのではないでしょうか。
戦後八十一年を迎える中で、そうした問いと向き合いながら、希望のメッセージを胸に留めて過ごしていきたいと思います。