戦争を知らないあなたへ 沖縄戦を生き抜いて

山里宗健
元・横須賀第一キリストの教会牧師、蕨キリストの教会員

 一九四四(昭和一九)年一〇月一〇日、米空軍機による沖縄初の空襲があり、那覇市は壊滅し、南部・中部、そして那覇市から、山の多い「山原」と言われる北部へ人々は避難を始めました。那覇市の郷里から名護に転居して一三年になる私の家族も、名護の町はずれに避難小屋を建てて、そこへ移り、さらに日本陸軍の防空壕、そして艦砲射撃のなかを隣村、現在の名護市羽地へと避難しました。

 ある日の夜中、皆が寝ているところに、「敵上陸」という警防団員の叫び声があり、近くの山に急遽避難。山のふもとに仮小屋を作り、そこで生活することになりました。何日過ぎたか記憶は乏しいのですが、またもや「敵斥候兵が来る」という警防団員の声に、山の奥へと避難を続けました。山の中腹に、中南部から避難してきていた農家の知人が建てた大きな避難小屋を見つけ、私たちはそこに逗留させていただき、荷を解くことができました。

 これは一九四五年四月一日の米軍上陸の数日後のことです。

 五月になると、持参した食糧が尽き、私は三歳上の姉と母と三人で、沖縄第三高等女学校近くの、所有者不明の芋畑で芋を掘ることにしました。すると、なんと女学校を兵舎にしていた(その時は全く知らなかったのですが)米軍兵士が、日系人兵士とともにやって来たのです。「南部ナドハ戦争中ダケレドモ、アナタガタハ大丈夫デス」と言って、食料品、お菓子、缶詰……歯ブラシ、歯磨き、タオルなどの日用品をくれました。芋や、そうしたいただき物を三人で山へ持って帰りました。山では夜になると、日本兵が物乞いに来ていました。私たちは、煮た芋と、米兵からもらった物とを分けてあげました。

 そのようなことはあっても、食糧不足は深刻でした。野菜の代わりに、よもぎ、苦菜、おおばこ、桑の緑の葉っぱ、食べられる草、薬草は何でも食べました。ソテツも粉にして食べました。

 そんなとき、病にかかった父は、医師もおらず薬もなく、避難小屋で私たちが見守るなか、静かに亡くなりました。父の死を知らせる通信手段などもちろんありません。それでも、父の友人二人が駆けつけ、棺箱を作って、近くの防空壕を墓にして、葬儀を出してくださいました。一九四五年六月一四日、私が一〇歳の時のことです。

 一週間後、米軍は「山狩り作戦」で小屋の近くにある日本軍陣地を爆撃し始めました。私たちは急いで小屋を放棄し、未知の山道を東へと歩いて行きました。途中、海軍陸戦隊の兵士一人が案内をしてくれました。この人のおかげで、一同は仮眠をとりながら、久志村辺野古(現・名護市辺野古)の山のふもとまで行くことができました。農家の空き家で朝食をとった後、兵士は「任務がある」と言って、山へ帰って行きました。その直後、その山のほうから銃声がしたのです。すぐに外へ出てみると、そこには数十人の米兵が銃を構えて立っていました。六月二二日、私たちは米軍の捕虜になったのです。

 そしてその翌日、六月二三日、沖縄最高司令官・牛島満陸軍中将の自決によって沖縄戦の組織的な戦闘は終結しました。女子学徒のひめゆり部隊をはじめ……本島・離島における集団死など、米軍も含めて二三万人を超える戦没者を出して。

 辺野古まで連れて来てくれたあの親切な日本人兵士は無事だっただろうか、と今も気になっています。……そして、米兵からもらった物を日本兵にあげても、スパイ容疑で日本軍に虐殺されなかったこと、戦時下にもかかわらず、米軍宿舎の近くの畑で芋を掘っていても射殺されなかったこと、夏の山道を一昼夜歩いても、毒蛇ハブに咬まれることなく、生きてこられたこと。こうしたことは今振り返っても、不思議なことだと思います。

 戦争は二度とごめんです。孫の世代の人たちに武器を持ってもらいたくありません。

 (元・横須賀第一キリストの教会牧師、蕨キリストの教会員)
(c)Souken Yamazato