キリストの弟子ってなんなん? 4

~愛する喜びを深める~

久保木聡(日本ナザレン教団大阪桃谷教会牧師)
1972年福岡県生まれ。オカリナ奏者として各地で演奏。非暴力コミュニケーション(NVC)の講師としても活躍中。著書に『オカリナ牧師の聖書ゆるり散歩』(いのちのことば社)など。


十字架上のキリストはただ苦しいだけだったのでしょうか。そうではなく、自分を献げる喜びもあったとは考えられないでしょうか。
十字架上のキリストの言葉には悲痛な叫びもあります。しかし、それだけでなく、母マリアにも、隣で十字架に架かる者にも、愛に満ちた言葉をかけています。その言葉はただ歯を食いしばって無理やり言ったというより、自分を与え尽くす喜びがあったように思えてならないのです。
大好きな人に出会い、恋に落ちて、相手から愛されるのも喜びです。それだけでなく、その相手に自分の生涯を献げたいと心に決めて相手を愛し抜くのも大きな喜びです。子育ての喜びも、我が子に与え尽くすと決めているからこその深い喜びと言えます。キリストにも、人類を愛し尽くすがゆえの喜びがあったはずです。
クリスチャンの歩みは、キリストと共に歩む恵みの旅です。ただ、この旅はキリストと歩むだけで自分が一向に成長・成熟しない旅ではありません。クリスチャンも成長・成熟しながら、キリストを、また出会う一人ひとりをより深く愛していくようになっていく……そんな旅なのです。
ただし、愛するとは自発性を尊重します。決して強いられてではなく、自ら進んで「この人のために!」と精一杯取り組むのです。そうやって愛してみると、内側から深い喜びが湧きあがってきます。
あるワークショップの際に、「最近、誰かの役に立てたことを話してください」と伝えると、ある人は照れ臭そうに、別の人はにこやかな顔をしながら、誰かの役に立てたことをそれぞれ嬉しそうに話してくださいます。誰かの役に立つことは、わたしたちにとって大きな喜びなのです。
とは言え、誰かの役に立つ喜びはとても繊細です。誰かの役に立つことでも、人から無理やりやらされると、役に立てた喜びよりも、やらされた痛みのほうが大きく残ることがあるのです。ですから、前々回に書いたように「いやです」と言えることも大切です。「いやです」と言える選択肢があるとき、本当にやりたいかどうか、自分の気持ちにより気づきやすくなります。本当にやりたくてやった人助けは、助ける側にも大きな喜びがやってきます。
人助けも奉仕も、「やりたくてやりました」と言えるとすがすがしいです。「正しいことだから」「やるべきだから」とやろうとすると、みずみずしさにかけ、変な力みが入ります。その結果、見返りを求めたり、人を裁きたくなる衝動がやって来たりしがちです。キリストと共に歩む恵みの旅は、キリストの温かな人格を味わいながら、やりたくない正直さも大事にしつつ、やりたい気持ちがやってきたら、進んで人助けをし、奉仕をするのです。
もちろん、さらに円熟して、やりたい思いを大切にして、いつも奉仕できるのなら、素敵なことです。それは、キリストと歩む恵みの旅のさらなる深まりと言えます。そうやって、愛する喜びを深めていきたいのです。

考えてみよう!
①最近、誰かの役に立ったことはどんなことですか? どんな気持ちになりましたか?
②「正しいことだから」「やるべきだから」やって人を裁きたくなった経験はありますか? そうなったら、どう自分を整えますか?