連載 神への賛美 最終回 ヨハネの福音書と賛美(6)
向日かおり むかひ・かおり
ピュアな歌声を持つゴスペルシンガー。代々のクリスチャンホームに育つ。大阪教育大学声楽科卒業、同校専攻科修了。クラシックからポップス、ゴスペルまで、幅の広いレパートリーを持ち、国内外で賛美活動を展開している。
美しい水面。ガリラヤ湖の岸辺で、ペテロは茫然と立っていました。ぽたぽたと落ちる水滴。彼はたった今、舟から湖へ飛び込んで泳いできたのです。目の前には、イエス様。十字架で死んだはずの。
ペテロの心は一度粉々になりました。「あなたのためなら、いのちも捨てます」と告白したのに。まさかその主が捕えられるなんて。かがり火、ものものしい兵士たちの声、剣、人々の険しい視線。恐怖におびえ、出た言葉は、「違う、私はあの人の弟子ではない。」三度にわたる否定。そして鶏は鳴いたのでした。「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います」と主がおっしゃったとおりに。
その、三度否んだ主が、今、目の前にいるのです。
「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」
ペテロは息を呑んだでしょう。私を愛していますか? こんな裏切り者の私が……?
私なら、もう立っていられない。恥ずかしくて消えてしまいたい。泣き崩れるかもしれない。でも、ペテロはこう答えました。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」なんという相思相愛の姿。
赦されている。愛されている。この方の言ったことは、すべて本当だった。ペテロは存在のすべてで、主を受け取っていたでしょう。粉々になったからこそ、よみがえった主の本質が、魂に真に訪れたでしょう。十字架の死は愛。でも、よみがえって現れてくださることもまた、愛。愛を告白する機会が与えられることは、甚だしい愛なのです。
イエス様は、三度否んだペテロに、三度愛を告白させる機会を下さいました。私たちの礼拝は、このガリラヤ湖にいるようです。何度失敗しても、たとえ神を裏切り、終わったと思うほどの過ちを犯したとしても、それでも主はその岸辺で待っておられる。
岩渕まことさんの作られた「愛します」という曲があります。私の特別好きな曲です。その歌には「愛します」という告白が三度出てきます。この、イエス様とペテロの愛の交わりに重なるようで、歌うたびに感謝と涙が溢れます。
ここでイエス様が「愛しますか?」という問いで「神の愛」や「無償の愛」「永遠の愛」を表す「アガぺー」を使ったのに対して、ペテロは「友愛」や「絆」を表す「フィレオー」で返答します。自分の肉なる思いでは、「アガペー」の愛で愛することはできないと深く知ったゆえでしょう。イエス様は、三度目は、「フィレオーの愛で愛しますか?」と尋ね、ペテロの心の位置まで下りてくださっています。
そのペテロは、こののち、さらに大きく変えられることとなります。殉教の死を遂げるまで、イエス様に従うのです。そう、主についていけなかった以前のペテロは一度死に、アガペー、神の愛に生きる人に大転換するのです。
「わたしの羊を飼いなさい。」
よみがえりの主は、やはり三度、ペテロにおっしゃいました。愛された者が、愛する者へと。
ある友人がこんなふうに言いました。「僕は、ワーシップリーダーの中でも羊飼いの心を持っている人が好きなんだ。賛美をリードしているその人の胸に、お父さんに甘えるようにぶつかって行きたくなるんだ。僕は会衆席にいながら、その人にぶつかってる。」感動的な言葉でした。私たちも羊飼いの心を宿す者になれるでしょうか。私の胸に誰かがぶつかってくることを、喜べるでしょうか。
一対一の究極の愛は、同時にキリストの体、教会へ放たれます。主の賛美に仕える者は、羊飼いの心で人々を主へ招くように変えられます。まことの羊飼いである主のこころを深く知っているからです。
羊飼いは、いのちの水の湧くところを知っています。魂の食物が何で、どこにあるかをよく知っています。自分が豊かに養われてきたからです。そして羊がいのちを得ることを喜び、羊のためにいのちを捨てる者となるのです。
ペテロは教会の岩、礎となりました。私たちもそれに倣うことができるのです。
この福音書を書いたヨハネは、いつもイエス様のそばにいて、その胸に寄りかかっていた人でした。私たちもいつも主の胸の中にいて、その御旨にあり続けたい。そして今度は誰かに自分の胸を貸していける人になっていく。愛され、そして愛する者に変えられることは、人生の大きな希望なのです。
私たちの希望は、永遠です。この方の愛は、永遠です。よみがえりの主は永遠、賛美は永遠です。