恵み・支えの双方向性 第19回 本能と学習

柏木哲夫
淀川キリスト教病院理事長

私の友人に、日本猿の生態を研究している学者がいます。彼は日本で初めて、日本猿の「母子分離実験」をしました。群れの中で生まれた雌の赤ちゃん猿を母親から離して人工飼育するのです。成長して出産可能になったとき、群れに返します。この分離猿は交尾し、妊娠します。出産して、
この学者の説明によりますと、交尾、妊娠、出産は本能によってできますが、保育は本能によってするのではなく、学習によるものであるということです。群れの中で成長した雌猿は、先輩の雌猿の出産と子育てを見て学習するというのです。
これに対して朱鷺は学習によってではなく、本能によって子育てをします。群れから離され、ケージの中で人工飼育された朱鷺が成鳥になり、自然界へ放たれます。彼女はそこで巣をつくり、交尾し、産卵し、卵を温めて孵化させます。雛に餌を運び、巣立ちまで育てます。母鳥はこの一連の行動を学習することによって身につけたわけではありません。すべて本能によって子育てをするのです。
人間や類人猿は本能と学習によって子育てをするのですが、魚類や鳥類は本能によって、自分の子孫を残します。鮭は海で育ち、本能で自分が生まれた川をさかのぼり、上流の川底に尾びれで穴を掘り、産卵します。これらの一連の行動は実に感動的です。誰からも教えられずにすごいことをやってのけるのです。孵化した稚魚はすぐに泳ぎ出し、自分で餌を探し、食べます。

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これに比べて、人間の成長はなんと長くかかることでしょう。母乳を与えられ、全面的に介助を受け、一年経ってやっと歩き始めるのです。もちろん、人間にも、摂食、睡眠、排泄など本能的な行動はありますが、人間の一生を考えると、学習したことを基にして行動することがとても多いと思います。人間的な行動はむしろ、本能に逆らってとられる場合が多いのではないでしょうか。その意味では人間は学習する動物であるといってもよいのではないかと思います。
例えば、人を赦すということは、自分が赦されたという経験を通して学習するのだと思います。誰かにとても腹が立つことを言われたときに、本能的には言い返す場合があります。売り言葉に買い言葉といわれるようにです。そのとき、言い返さないで、相手の言葉を赦し、穏やかな応答ができる場合があります。その行動は、同じような状況で、相手が穏やかな応答をしたという経験から学習したことではないでしょうか。
慰める、慰められるという体験にも同じことがいえると思います。誰かに慰められたという経験があって初めて、人を慰めることができるのではないでしょうか。さまざまな経験の中で、愛されるという経験は人間の経験の中で最も大切な経験といえます。誰かから愛されたという経験なしには、人を愛せないのです。

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小学生のいじめや自殺が大きな社会問題になっています。児童精神科医や専門のカウンセラーが経験の中から出した結論は、誰かから認められ愛されている人は、人をいじめないし、自殺もしないということです。精神科医の斉藤環氏は、いじめを続ける子どもに起こる問題について、とても大切な言葉を残しています。
「いじめを続けることで失われるものが確かにあります。自分自身が大切で、かけがえのない人間であるという自覚が一番に損なわれます。」
このことを方向性という観点から見てみますと、いじめるという行為は自分から他の人へというベクトルです。それに対して、自分が大切で、かけがえのない人間であるという自覚は他の人から自分に向かってくるベクトルによって与えられる感覚です。自分から他の人へいじめというようなネガティブなベクトルが出続けると、自分の内部に自分自身が大切な存在であるという感覚が育たなくなるのです。      
斉藤氏の文章を読んだとき、私は聖書の一節を思い浮かべました。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。
わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43・4)
私自身の存在を高価で尊いと言ってくださり、愛してくださる神様からのまなざしは何にもましてありがたいものです。