スピリチュアル・ジャーニー その後 ~真の人間性の回復へのプロセス~ 第七回 自分の人生から学ぶ④

坂野慧吉(さかの・けいきち)

1941年、東京都生まれ。その後、北海道に移住。福島高校、東京大学卒業。大学生時代にクリスチャンとなり、卒業後、聖書神学舎(現・聖書宣教会)に入学。その後、キリスト者学生会(KGK)の主事を経て、1971年より浦和福音自由教会牧師。

第二の七年間の思い出(つづき)
小学校六年生の時に、大学の付属中学を受ける決心をして、担任の尾形先生に放課後の時間に、受験勉強を指導していただいた。今の時代では考えられないことである。そのおかげで無事に希望の中学校に入学が許された。

中学のクラス担任の先生は二人いて、その一人は音楽の佐藤政夫先生、もう一人は社会科の山内兵衛先生であった。入学式の時に、中学生がオーケストラで、ビゼーの「アルルの女」組曲の「ファランドール」を演奏して新入生を迎えてくれた。一九五三年のことである。佐藤先生は音楽を興味深く教えてくれた。「音楽が大嫌い」になった私は、この先生の授業を通して再び「音楽が大好き」になった。同級生のS君は、バイオリンを専門にやっていて、後に東京藝術大学のバイオリン科に進み、プロの交響楽団に入団した。また、中学三年生になるまで、卓球少年だったM君は佐藤先生にその才能を見出されて、コントラバスを弾くようになり、やはり東京藝大に行き、その後かなり有名な奏者となって、国外でも演奏活動をするようになった。

このような環境の中で、私はバイオリンに魅入られて、父に「バイオリンを買ってほしい」と頼んだが、「うちにはそんなお金はない」と言われて、その時は買ってもらえなかった。私は自分のお小遣いを貯めて、三年生の時には五百円ほどになった。それを見て、父は私の努力を認めてお金を足してくれて、ようやくバイオリンを買ってもらった。近くにバイオリンを教えてくれる先生がいたので三か月ほど習ったが、母から「高校受験があるからやめなさい」と言われて、やむなくバイオリンを弾くことを諦めた。このことは私の人生での後悔となった。親をうらむのではなく、自分の心の願いを大切にしなかったからだ。

佐藤先生は、私たちが三年生になった時に、授業で滝廉太郎の「花」という曲を教えてくれた。その時先生は「きみたちはこれからの人生でさまざまなことを経験するだろう。その時にこの歌を歌うと、今歌うのとは違った思いで歌うようになると思う。その時のために、低音部も教えておく」と言って教えてくれた。それから約五十年以上経ったとき、福島駅の近くのホテルで、「同期会」が開かれた。佐藤先生はその直前にご病気で入院して参加することができなかった。同期会の世話役がいきなり、「佐藤政夫先生が教えてくれた、『花』を歌おう」と言って、練習なしに十数人が前に出て歌った。なんと見事に二重唱で歌い、ピタッと合った。同期会の帰りに同級生と一緒に先生が入居していた施設に行って、先生に歌の報告をした。先生は満足そうにうなずいて「ぼくは、きみたちに『音楽こそは教育の基本だ』と信じて教えたんだ」と言われ、戦後、学校にピアノ一台もないところから、どのようにして音楽教育をしてきたかを話してくれた。

中学時代の思い出は多くある。部活はバスケットボールで、毎日のように練習に明け暮れていた。かなり厳しい訓練だったが、そのおかげで体力がついた。またチームワークの大切さを教えられ、その訓練も受けた。私は背の高いほうではなかったので、どちらかというとシュートをする人にボールを回す役割だった。今でも、自分がトップリーダーよりもサブリーダーに向いていると思っている。

同じクラスの仲間で互いに「人生論」を語り合い、「人は何のために生きるのか」ということを論じ合った。今でも当時の友人たちと年に一度は食事して語り合っている。

この中学時代に「自分は将来何をする人になりたいか」「どんな職業に就くのか」ということをいろいろ考えた。将来父のように、化学の研究者になりたいと思ったこともあり、福島県出身の医学者・野口英世に憧れて、医師になろうかとも考えた。また、プロの音楽家は無理としても、音楽を教える先生になりたいと真剣に考えたこともあった。学校ではすばらしい教師たちに教育を受けてきたので、科目は何であれ、学校の教師としての道も選択肢のひとつであった。また、自分は勉強は嫌いではなかったので、自分の専門を研究し、大学の教師になることも考えた。

その後、私は大学生の時にクリスチャンになり、神様の導きで牧師になったが、振り返ってみると、さまざまな迷いや試行錯誤を繰り返してきたことがわかる。しかし、そのような中で学んだこと、人と出会ったこと、経験したことは何一つとして無駄なことはなく、一つ一つのことに意味があったのだ、と言うことができる。

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。」(伝道者の書三章一一節)