特集 困難の中でイースターを祝う イースターメッセージ すべてが新しくされる希望

争いや災害が世界に蔓延している現代。この困難な時代を生きる私たちにとって、二千年前のイエスの復活は、どのような意味があるのでしょうか。人の生と死に向き合うとともに、よみがえりのいのちについて思いをめぐらしたいと思います。

東京基督教大学 教授 篠原基章

戦争、災害がある日常
戦争の炎が世界のあちこちで燃えあがり、その炎は人々の生活を焼き尽くし、悲痛と絶望の灰が人々の心を覆い尽くそうとしています。また、人々が新しい一年の平穏と幸せを祈る元日に能登半島を大地震が襲いました。震度七の大きな揺れは広範囲に及び、家屋の倒壊が相次ぎ、多くの人命が失われました。私たちは戦争と自然災害の前で、再び悲しみと無力感に襲われました。愛する者を失うことほどに、私たちを苦しめるものはありません。
大きな戦争や災害を目の当たりにするとき、私たちはそれが何か特別なことのように考えがちです。しかし、戦争や自然災害は、現実世界において決して特異な出来事ではないのです。
人類の歴史はまさに戦争の歴史でした。また、自然災害は古代から今日に至るまで私たちの日常生活と共にあります。国同士の大きな戦争でなくとも、私たちの日常生活は常に「小さな戦争」で満ちており、私たちは不条理と思われる出来事や、思いがけない病や死に怯えて生きています。人々が平穏無事を祈るのは、まさにこのような現実世界の裏返しだと言えます。
このような現実にあって、教会はどのような希望を語ることができるのでしょうか。

復活の希望は、信仰の「かなめ」
復活の希望は信仰を支える必要不可欠な柱です。パウロが、「キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります」(Iコリント15・14)と書き記しているように、イエス・キリストのよみがえりの出来事はキリスト教信仰の中心であり、「かなめ」だと言えます。
「かなめ」とは、扇や扇子を束ねる根本部分のことです。キリスト教信仰のすべてが、まさにキリストの復活の一点でつなぎあわされているのです。
キリストは罪の結果である死を打ち破り、朽ちることのないいのちを私たちにお与えになりました。主イエスの復活は、「死すべきいのち」から「滅びることがないいのち」への転換を意味しています。
キリスト教信仰における復活とは、単に永遠に生き続けるということでも、魂の不滅を意味するのでもありません。また、プラトンが説くような肉体の牢獄からの解放でもないのです。逆にキリスト教信仰は、肉体を伴うよみがえりを信じるのです。
復活の信仰は日本の伝統的な死生観に見られる無常観とも異なります。無常観は死を避けられない現実として受容します。しかし、キリスト教信仰において、死は終わりではなく、朽ちないいのちのはじまりです。無常観は諦念と深く結びついていますが、復活の信仰は希望と結びついています。イエス・キリストの福音に与る者たちにとって、死はこの地上での巡礼の旅の完成の時です。地上での愛する者との別れは永遠の別れではなく、来るべき永遠の世界での再会の希望なのです。

神の支配を待ち望む教会
初代教会はこの復活の希望によってこの世に打ち勝ちました。彼らは苦しみにあうとき、愛する者が奪われるとき、自らのいのちが絶たれるときでさえも、復活の信仰のゆえに、希望を失うことはありませんでした。
初代教会のキリスト者たちは、自分たちがこの世にあっては旅人・寄留者であり、この地上の世界が永遠に続く安住の地ではないことを理解していました(へブル11・13)。この世は一時的に暴力と死に支配されています。しかし、その現実がすべてではなく、それを超える神の支配が確かに到来することを、彼らは信じていたのです。
初代教会のキリスト者は、真の主権者が誰であるかを知っており、神の御心がやがて実現することを信じていました。だからこそ、彼らは忍耐深く「神の国を来たらせたまえ」と祈り続けることができたのです。
教会はキリストの復活の証人であり、その証拠です。キリストの福音に与る者は、すでにこの世において、復活による新しいいのちに生きる者だからです。
暴力が力を持つこの世界にあって、教会は、主イエスと同じように敵を愛するように召されています。また、悪に対して善をもって報いる平和の民として生き、愛の共同体を形成するようにも召されているのです。
復活の信仰は、この地上の権力を絶対化することなく、相対化する視点を教会に与えます。キリスト者は、この世のあらゆる権威を相対化する永遠の視点と、終末的視点を持つことで、偏狭な愛国主義や独善的なナショナリズムを乗り越えることができるのです。黙示録にあるように、国家が自らを神格化し、国民に礼拝を強要する時代にあっても、教会は、屠られた子羊であるキリストだけを礼拝するのです(黙示録5・12)。

不完全な世にあるキリスト者の希望
私たちはこの地上での歩みにおいて、多くの悲しみ、苦しみ、別れを経験します。というのも、この世界は不完全だからです。この世界はうめき苦しんでいます。そのような世界において、主イエスは「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです」(マタイ5・4)と語られるのです。
神を信じない人々にとって復活はおとぎ話であり、つまずきの石でしょう。しかし、信じる者にとっては、実に驚くべき希望であり、慰めです。復活は、人間の罪によってもたらされた死を含むすべての悪と不完全さを取り除き、再創造の御業によってすべてが新しくされる希望なのです。
「これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。」(へブル11・13)