ギリシア語で読む聖書 第4回 「この世」(オ・コズモス)

杉山世民
【プロフィール】
林野キリストの教会(岡山県美作市)牧師。大阪聖書学院、シンシナティー神学校、アテネ大学に学ぶ。アメリカとギリシアへの留学経験が豊富で、英語とギリシア語に
精通。

新約聖書に何度も出てくる(オ・コズモス)は、ほとんどの場合、神から離れてしまって、神を知らない肉的な世界という悪い意味で使われているようです。

例えば、ヨハネ17・14 「わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではないからです」。ここで使われている「彼ら」とは、前後関係から明らかに主イエスを信ずる者たちですから、私たちも含めることができます。新共同訳では「わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです」と訳しています。

言い換えれば、私たちは「世()」に属していないということになります。これには、どのような意味が込められているのでしょうか。聖書には「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」(ヨハネ3・16)ともあります。神は、自分に敵対している「この世」を愛されたと言うのです。

私がアテネ大学で学んでいた時、この言葉とのちょっと衝撃的な「出会い」がありました。いつものようにアテネの市バスに乗って学校に向かっていた時です。その日、市バスは、いつもよりかなり混みあっていました。やがてバスが動き始めると、外にいる一人の中年のおばちゃんが、慌ててバスのドアに駆け寄ってきて大きな声で「開けて!(アニーゲテ)」と叫ぶのです。私は、心の中で「大阪のおばちゃんと一緒やな」と思いつつ、同時に、ここはではないのかな、などと独り想いながらも親しみを感じて、微笑んで見ていました。すると、そのおばちゃん、乗り込んできて満員なのを見て、私の目の前ではっきりとギリシア語で(当たり前ですが……)(ティ・コズモス)とおっしゃったのです。

これは「なんという世界!」ではなく、平ったく言えば「まあ、なんて混んでいるのでしょう!」という意味です。私は「へーっ、こんな時にもという言葉を使うんだ」と妙に新鮮な印象を受けたのを、今でも鮮明に覚えています。には「世の中にいる人間、人間の世界、人混み」という意味があります。

このように「世」を地上における人間の総体、群衆と考えると、「わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません」

は、私たちがなにか地上の人間ではないように聞こえてしまいます。私たちとて、この世に生きているわけですから、この「世に属さない」とはどういう意味なのだろうかと考えさせられてしまいます。

ギリシア語の表現をよく見ると、私がでないように、彼らもではありません、となっています。

このという前置詞句のという前置詞は、本来、「~の中から外へ(out of)という意味を持っています。

ですから、「わたしがout of the worldでないように、彼らもout of the world ではありません」となります。このという前置詞で思い出すのが、「義人は信仰によって生きる」(ローマ1・17)という言葉です。この 「よって」という前置詞は、ここでは「基盤、根拠、存在理由」を意味する前置詞です。そう考えると「義人は、キリストの福音信仰を基盤、根拠、存在理由として生きていくものである」という意味になります。

このように見ますと、ヨハネ17章の「わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではない」とは、主イエスと同じように、私たちもこの世を基盤として、この世を根拠として、この世を存在理由として生きているのではない、ということになります。

つまり、私たちはこの世の栄光を基盤、理由として生きているのではないということです。ここにこそ、主イエスが言おうとしておられた意味があると思われます。主イエスは、この世に「ぜひ来てください」と頼まれて、この世の要求を満たすために来られたのではないのです。神に遣わされて、神の使命を果たすために世に来られたのです。

然るに、世の人は言います。「人類の罪のために十字架の上で罪の贖いのために血を流してくれ!」などと頼んだ覚えはない、「他人は救ったが自分は救えないのか。 今、十字架から降りて来い。そうしたら信じてやろう」(マタイ27・42参照)。

これは、まさに現代人の声です。ここに、キリストの福音が必然的に持っている悲惨があります。「わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではない」という主のおことばは、実に、人に理解されない深遠な神の御計画と孤独に満ちた主イエスの運命とが見事に暗示されているようでなりません。