ここがヘンだよ、キリスト教!? 最終回 私の信仰に先立つ、神の真実と支え

徳田 信
1978年、兵庫県生まれ。
バプテスト教会での牧師職を経て、現在、フェリス女学院大学教員・大学チャプレン。日本キリスト教団正教師(教務教師)。

本連載も最終回となりました。ご提示いただいた連載テーマに若干の戸惑いを覚えながらも、何とか一年間の連載を終えようとしています。これまでの連載記事をパラパラ振り返りながら、自分が伝えようとしたのは何かと考えてみました。そこで思い至ったのは、「私の信仰に先立つ、神の真実と支え」ということです。言い換えれば、信仰とは私ひとりで歯を食いしばって握りしめるものではなく、神と、神が備えってくださっている人々によって育まれ、支えられていくものなのだ、ということです。

第一回目に、自己紹介を兼ねた「証し」を記しました。そこでお伝えしたかったのは、かつての自分が“私の信仰”ばかり思い悩んでいたこと、しかし、救いの根拠が私の信仰ではなく“神の真実”にあることを見出したことです。プロテスタントの大切な教理の一つに「信仰義認」があります。救いには「善い行い」が必要であるとしたローマ・カトリックに対し、必要なのは「信仰のみ」との主張です。しかし、その場合の“信仰とは何か”が問題となります。私たちが自覚的に神に応答することや、熱い信仰心を持ち続けるという側面だけで捉えるならば、この信仰自体が形を変えた「善い行い」となる恐れがあります。その問題を浮き彫りにするのは、明確な信仰表明が生まれながらに困難な人々、たとえば重度知的障がい者の存在です。

そもそも、私たちの信仰心や決意など覚束ないものです。立派そうなことを書いたり語ったりしている私自身、年老いて認知能力が著しく低下し、「イエス? 誰それ。ナンマイダ~」と言い出すかもしれません。いや、今この時でさえ、主イエスが喜ばれない様々な思いに駆られることがあります。「私の信仰」など本当に脆いものです。しかし主なる神さまは違います。「父の神の真実は、とこしえまで変わらず~♪」(『教会福音讃美歌』40番)という讃美歌がありますが、まさに然り。私たちの髪が白くなっても、たとえ前後不覚になっても、どこまでも背負い続けてくださるお方(イザヤ46・4)、大切なひとり子を犠牲にして私たち一人ひとりの罪を赦し、その御腕に抱いていてくださるお方です。

その点、近年出版された『聖書 新改訳2017』と『聖書 協会共同訳』には、注目すべき変更が加えられました。たとえばローマ人への手紙3章22節ですが、旧来の新改訳第三版では、「イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ」となっていました。しかし協会共同訳では、「神の義は、イエス・キリストの真実を通して、信じる者すべてに現されたのです」と、大幅に訳し直されました。ここでの「真実」には、誠実、または端的に“信”とでも訳されるニュアンスがあります。新改訳2017では、本文は基本的に変わっていませんが、欄外注として「別訳、イエス・キリストの真実によって」が新たに付されました。

この箇所は原語のギリシア語で、旧来のようにも新訳のようにも訳すことができます。実際、両方の意味合いが重なっていると思われます。しかし事柄の順序としては、まず「イエス・キリストの真実」があって、そこから「イエス・キリストを信じる信仰」が生まれる、と捉えるのがよいでしょう。

つまり主イエスは、私たち人間を救おうとする父なる神の御心に、逃れることなく誠実に従い、十字架に掛かられました。それはまた、主イエスが私たち人間を愛するゆえに、私たちに対して誠実を尽くされたとも言えます。そこには、あらゆる人々に救いをもたらす旧約時代からの約束(契約)を、父なる神が誠実に果たしてくださったことも含まれます。

こうして神の側から“信”が示されました。そして私たちがその“信”を受け止めたとき、感動・感謝をもって、私たちの側の“信=信仰”が生じます。そこでの信仰は、知的了解や一回的な応答だけにとどまりません。神が身をもって示してくださった“信”を、私たちの生き方に反映させることが含まれます。

それにしても、私たちの足取り、主イエスに従っていく人生の歩みは覚束ないものです。神はだからこそ、教会を備えてくださいました。ひとが洗礼を受けて教会に加わるとは、すでに走っている列車に飛び乗るようなもの。その列車には、先んじて歩む旅の仲間たちが乗っています。誰かが旅路から逸れたら「あなたは神の愛する子ですよ」と諭し、信仰の道に連れ戻してくれる、そのような仲間たちです。信仰は、ひとりで歯を食いしばり孤高に追求していくものではありません。神と、神が備えってくださった人々によって育まれ、支えられていくものです。そして私たち自身も、この列車(教会)の新しい仲間を育み、支える側になるよう期待されているのです。