ギリシア語で読む聖書 第1回 ギリシア語新約聖書本文の歴史

杉山世民
【プロフィール】
林野キリストの教会(岡山県美作市)牧師。大阪聖書学院、シンシナティー神学校、アテネ大学に学ぶ。アメリカとギリシアへの留学経験が豊富で、英語とギリシア語に
精通。

「ギリシア語の新約聖書」は、今、私たちが手にしているような見事に編集されたギリシア語新約聖書原典が、まるで天から降ってきたように、初めから存在するわけではありません。主イエス・キリストは、何か書いたものを残されたわけでもないですし、パウロが書いた書簡等も、そのまま現存するわけでもありません。使徒以降の初期教父たちでさえも、新約聖書記者たちの書いた「自筆の原文(autograph)をこの目で見た」などという証言は見当たりません。すでに一世紀には、新約聖書を書いた著者たちの原文(archetype)は、消滅していたとフィリップ・シャフ(Philip Schaff)は言います。では、私たちの新約聖書原文は、いったいどこにあるのでしょうか?

世界初のギリシア語新約聖書
実は、新約聖書ギリシア語の本文は、編集される前は、さまざまな書き写された形で残されていました。およそ五千点以上からなる写本、古代語訳、教父の引用、護符(お守り札)、祈祷文、などという形で残されていたのです。それらを本文批評学的に比較検討して、復元、編集されたものが、私たちが今、手にしている「ギリシア語新約聖書」なのです。本文批評学という科学的手法によって、原書が九〇数パーセントの精度で復元されていると言います。これは、学問的に見てほぼ間違いない本文だと言えるレベルです。

世界で初めて印刷技術が考案されたのは、一四四五年、ヨハネス・グーテンベルクによってでした。しかも宗教改革の時期にあって、印刷技術の発明は聖書の需要と見事にマッチしていたのです。グーテンベルクの印刷技術によって最初に印刷されたものは、対トルコ戦争の資金集めのための、いわゆる「免罪符」だと言われていますが、最初の本として印刷されたのは、一四五六年、ヒエロニムスのラテン語「ヴルガタ訳聖書」だと言われています。

一五一四年、ドイツの出版家ヨハン・フローベン(Johann Froben)は、エラスムス(Desiderius Erasmus 一四六九―一五三六)に新約聖書のギリシア語版を編集するよう依頼します。フローベンに急かされたエラスムスは、そこらへんの手に入る写本をいくつか参考にしながら、ほんの数か月でギリシア語の新約聖書を編集してしまいます。ギリシア語写本が欠けているところについては、エラスムスはヒエロニムスのラテン語ヴルガタ訳聖書から自分でギリシア語に訳し(!)、穴埋めして「急ごしらえ」でギリシア語新約聖書を作って、一五一六年には発行してしまったのです。

このエラスムスの小さな(フォリオ版)ギリシア語新約聖書は、ハンディであったこともありますが、時の宗教改革の波に乗って、非常に数多く売れたと言います。この第二版がルターのドイツ語訳の底本となります。

ところが、もっと緻密に、貴重な写本を参照しながらコツコツと新約聖書と旧約聖書を学的に研究し、編集していたカトリックの学者がいました。スペインの枢機卿ヒメネス(Francisco Ximenes de Cisnero 一四三七―一五一七)という人物です。エラスムス版が編集され、印刷されるよりもかなり前から、ヒメネス版のギリシア語新約聖書は編集と印刷を終え、でき上がっていたのですが、カトリック本庁から貴重な写本などを借りていたため、出版販売許可が下りるのに、時間がかかったのです。ですから、本当はヒメネス版のほうが、エラスムス版より早くでき上がっていたのです。出版はエラスムスのほうが先ですが、でき上がっていたのは、ヒメネスのほうが早かったのです。

ヒメネス版ギリシア語聖書(一五一四年)の序文
ヒメネス版の聖書は、当時手に入る写本など、よく研究されていて優れていました。印刷されたのは一五一四年でしたが、カトリック教会からの出版認可などの関係諸事情で遅れ、出版されたのは一五二〇年、彼の死後の出版でした。そのヒメネス版の序文に以下のような文章が掲載されています。今回の連載のテーマと共通するものがあると思われますので、紹介します。

「訳本は原文、少なくとも救い主自ら用い給いし国語の意味を十分に、また、正確に表し得るものではない。故に聖書の本源にさかのぼるには旧約をヘブル語本文により、新約をギリシア語本文によりて校正し、聖書の本源にさかのぼる必要がある。おおよそ、神学者たる者は、各自、永生にいたるその水を飲み、その源を求め得る人でなければならぬ。我らの目的は、従来、閑却された聖書原文研究を復活するにあり。」