特集 共に歩む夫婦となるために クリスチャン同士だからうまくいく、とはかぎらない―

 
 聖書が語る結婚観とは何か、夫婦が「共に歩む」ために必要なことは何なのか。一般的な「理想の夫婦像」ではなく、神さまが祝福として与えてくださった「結婚」とは何かを考えます。

 

 

二人が一つとなる歩み

 

『愛し合う二人のための結婚講座』著者  大嶋裕香

 

私たち夫婦はこれまで十九組の結婚の証人をしてきました。結婚の学びだけ担当したカップルも入れると三十組以上になります。

結婚前の学びでは我が家に来ていただき、できれば三回ほど、結婚後も折々に四人で学びます。
結婚前の学びでは、「愛されことば」(自分が愛を感じることばや行動)、「悲しみことば」(悲しみを感じることばや行動)について。さらに、実家の家族の温かな思い出、悲しい思い出について。教会生活、仕事、お金について分かち合っておきたいこと。結婚準備に名前をつけてみる、などを分かち合います。

また結婚後も定期的に来ていただいて、折々の「愛されことば」、「悲しみことば」を点検し、性のことで悩んでいることはないか、夫婦喧嘩の対処法、子育てなどについても話し合います。
大事なこととして伝えているのは、夫婦の関係にはメンテナンスが必要であること、周りから助けられやすい夫婦であることです。

不思議なことに、夫婦だけで話しても行き詰まってしまう問題でも、どなたかに間に入ってもらうと冷静に話し合えて、お互いに言い分を聞いてもらえるだけでスッキリし、素晴らしい解決が与えられていくのです。

私たち夫婦もずっとこのような先輩夫婦の交わりや学びに助けていただいて、風通しの良い夫婦関係が与えられてきたのだと思います。困った時に「助けてください」「教えてください」と言い合えるクリスチャンカップルの交わりの豊かさを実感してきました。

結婚セミナー、夫婦セミナーでは、独身者向け、既婚者向けで内容は違いますが、結婚について聖書から学び続けること、「二人が一つとなる」歩みには、互いの努力と学びが必要であり続けることなどもお伝えします。

独身者向けには、結婚についての学びを続けること、祈り備えること、信仰的な自立についてお話しし、男女の違いについてディスカッションしたりもします。

既婚者向けセミナーでは、そもそも夫婦は別人格であり、違いがあること、その違いが夫婦を豊かにすることなどを創世記から学びます。そして、今までの夫婦げんかに名前をつけて発表してもらったり、「愛されことば」「悲しみことば」を夫婦で想像して当て合ったり、今まで言えなかった伴侶への感謝の言葉を伝え合ったりしてもらいます。

そのような学び続けようとする姿の中で、笑いと涙が溢れてきます。そして何より夫婦の距離がぐっと縮まるのを見ると、私たちも感謝の思いでいっぱいになります。愛し合っている夫婦はそれだけで素晴らしい証しなのです。

「いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。」(ヨハネの手紙第一、4章12節)

 

 

夫婦“となる”ために

鳩ヶ谷福音自由教会 牧師  大嶋重德

『夫婦となる旅路―一心同体となる霊性の成長』という本が出ます。このタイトルからすでに教えられることは、夫婦は“である”ではなく“となる”ことなのだということです。

それは、理想の夫婦などはこの地上にどこにもいない、ということを意味しています。夫婦の姿は一組一組違います。憧れにしたい夫婦や勉強になる夫婦はいたとしても、どの夫婦も“となる”という旅路を歩いてこられたにすぎません。

しかし私たちは、いわゆる「理想の夫婦」という虚像を持ちやすいものです。ただよく見ると聖書の中に、は理想の夫婦はどこにもいません。イエス様も結婚されませんでしたし、最初の夫婦のアダムとエバはご存じのとおり、「あなたが与えてくださったこの女が……私にくれたので」(創世3・12)と、つい先程まで「私の骨からの骨、私の肉からの肉」(同2・23)と言っていたにもかかわらず、良き創造の夫婦も壊れてしまいました。

結婚前のカップルへ言われがちなことの一つに、「神様を中心にした三角関係を作りましょう。お互いが神様を見上げていくうちに次第に引き寄せられていくのです」というアドバイスがあります。

しかし、自分の夫婦となる旅路を振り返るとき、「一つになる」という旅は、神様を見上げながら引き寄せられていくというよりも、むしろ二十数年にわたる夫婦の旅路は、二等辺三角形が広がっていくような経験であったように思います。

神様を見上げるからこそ、相手を支配したり、あるいは自分の個性を捨てたりするのではなく、相手に自由をもたらすものを選び取るように導かれたことを思います。

時に理想の夫婦という虚像は、「一つになる」という支配を相手に押し付けることとなるのだと思います。

「あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい」(ガラテヤ5・13)。愛と自由は一つのこととして聖書は語ります。

この二等辺三角形が広がっていくとき、そこに子どもたちが入ってきました。この三角形が窮屈で、支配的であるならば、子どもたちはこの三角形を飛び出していったでしょう。神様との関係も捨てたかもしれません。

この三角形が広がっていく中で、他にも壊れた家庭の青年も、我が家の三角形に入ってきてくれました。「大嶋家に来て、初めて結婚をしたいと思いました。」実際、私たちは破れかぶれです。しかし、イエス様を見上げていく中で、お互いの人生で傷ついてきた傷を癒やし合い、お互いの人生を縛り付けていたものを解き放ち、夫婦を通して互いが自由を得ていったのだと思います。これが夫婦となる旅路で大切なことでした。

さらに二等辺三角形が大きくなるために必要であったこと。それは誰よりも自分の妻から教えられやすくあることなのだと思います。聖書自身から理想の夫婦像を勝手に作り上げて、相手をさばき、なじることからは、自由の広がりは生まれません。相手から謙遜に学び、自分が変わりやすくいることです。

この文章を書いている途中に、『夫婦となる旅路』が届きました。この本を読むのに一番良いのは、最終章の豊田かなさんの文章から読むことだと思います。そこには、このご夫妻が歩いてこられた旅路の葛藤と、同時に神様に変えられていく夫婦の希望が溢れています。