この地に平和が来ますように エッセイ 平和をつくる一歩

西岡義行
日本ホーリネス教団 下山口キリスト教会牧師

 平和は旧約聖書ではシャロームということばが使われる。それは、実に豊かな意味を包含するもので、健全、幸い、平和、救い、そして正義という意味も含むことばだといわれる。また物質(経済)的、政治的、社会的、さらには霊的な領域を含み、戦争のない静的状態を表すことばではなく、神の業によってもたらされるものとして、動的にとらえられる。だからシャロームを祈るとき、それは、実際生活の具体的な事柄に関わる祈りとなる。


 同じ地球に住みながら、今も紛争や飢餓に苦しむひとりひとりに私たちは何ができるのだろうか。しかし、この問いに対して私はある種の無力感を覚えていた。

先日、アジアでもたれる会合に出席する機会が与えられた。成田空港を出て目的地に到着すると、ゲートを出た所で、会合の主催者が迎えに来られていた。エアコンが備わった専用のマイクロバスに乗り込み、街中を走り出す。

 その窓から入ってくる光景に、ことばを失った。生計を立てるために物を売ろうとして、猛暑の道路で渋滞する車と車の間に入ってくる男性そして女性たち。今にも倒れてしまいそうな腐食したブリキでできた住まい。その周りで遊ぶ裸の子どもたち。エアコンがきいた自動車のこちら側に座っていることを申しわけなく思うほどだった。

 会議が始まり数日後、朝食までの時間、静まる場所を求めて外に出たときのことだった。早朝にもかかわらず、あまりの活気に驚いた。荷台にたくさんの人を乗せた三輪自動車が黒い煙をふりまいて通り過ぎたかと思うと、前と後ろに子どもを乗せて通り過ぎるバイクの煙が私の前方を白く包んでしまう。すると、その向こうから、魚を焼く美味しいにおいがいきなり鼻に飛び込んでくる。通勤の途中で路上で売られる食べ物を買って口にほおばるその活気ある姿に、生きる力を感じた。

 しかし、一歩路地を入り、その生活空間に入っていくと、そこは貧しい人々の居住区だった。つまった下水の悪臭が鼻を突き、背丈ほどの家の中では乳児が泣き続けている。まとわりつく蝿を気にすることなくよれよれの下着ひとつで立ちすくむ子どもたちや、座り込んでいる生気を失ったかのような老人たち……。

 会合に戻ると、あまりにも豊かな食事とデザートの数々にとまどった。会議中も、こうした貧民街で活動を続ける報告者が、希望に燃えつつ深刻な状況を語る。そのとなりで、「いったい私は何をしているのだろう」と問い続けた。

 会議が終わり、貴重な経験をした国を立ち、成田空港につくと、慌ただしい日常と、なすべきことが私を待ち構えていた。数日後、気がつくと、それらの出来事がはるか昔のことのように過ぎ去っているのを発見した。

 テレビの特別番組でその国のことが報道された。私が見たような光景が画面に現れ、再び無力感に襲われた。


 そんな時、このエッセイを書くこととなった。私に平和を語る資格などないことを思い知らされていた。そんな中、福音派の会合で、日本国際飢餓対策機構(JIFH)の神田英輔氏がこんな話をされた。

 「ルツ記にある落穂ひろいは、『畑の隅々まで刈ってはならない。あなたの収穫の落ち穂を集めてはならない。』(レビ一九・九)に基づいています。ある女性は、日本人として残しておくべき落穂はおつりで戻ってくる一円と五円であるとして、それをすべて主にささげてこられたのです。皆さんも、ぜひ聖書の生き方をこの日本でなさいませんか」。

 話をされた先生に「(JIFHオリジナルの)献金箱はまだありますか」と聞くと、持ち合わせがなくなっていた。その後、先生から中身の入っている先生個人の献金箱を差し出され、「これならありますが……」。

 中身の入った献金箱を預かってしまった。いろいろな意味で重く感じた。平和のために祈り、できる小さなことからはじめることが許された。平和をつくる主の働きへの参与という恵みへの一歩となった。