特集「教理」とは何か?キリストの身体を鍛えよう

キリストの身体を鍛えよう

日本同盟基督教団・徳丸町キリスト教会牧師  朝岡 勝

伝道者となって遣わされたばかりの教会でのことです。幾人かの方々と出会う中で、その物腰、語り口、他者との関わり方、聖書の読み方や祈りの言葉など、信仰者としての立ち居振る舞いから、「ああ、この人はきっとそれなりの信仰の年月を重ねて来た方だな」と想像し、その後に信仰歴を尋ねてみると、実はまだ教会に来て数年、洗礼を受けて数年と聞いて驚いたということがありました。
その後、教会での生活を共にする中でその理由がわかってきました。その教会では信仰の入門の時から、きちんと教理を教え、学ぶという習慣があり、信仰を持った時には、ひととおり聖書が教える信仰の全体像が身に着くようになっていたのです。もちろん、それぞれ個人差はあるものの、それでも総じて言えば、信仰の年数以上と思われるような、ある種の落ち着きが感じられたのでした。そしてこのことが教会全体の霊性を整え、キリストの身体である教会を健やかにしていたのです。

聖書はこう呼びかけます。「キリストについての初歩の教えを後にして、成熟を目指して進もうではありませんか」(ヘブル6・1)。信仰の成熟の表れは多様ですが、私はこんな姿を想像します。小さな段差で躓かない信仰、試練の中にあってもどっしりと構えることのできる信仰、さまざまな教えの風が吹く中でもバランスの取れた信仰、たとえ困難の中で打ち倒されそうになっても、倒れ込む前に次の一歩が出て、何とか踏みとどまらせてくれる信仰。そうした一人一人によって組み合わされ、建て上げられていく教会は、健やかで、しなやかで、地に足の着いた歩みを続けていくことができるでしょう。
教理を学ぶこと、それはキリストの身体である教会の足腰を鍛えること、あるいは体幹を鍛えることと言ってもよいでしょう。
多くの人が身体の健康を維持するためにランニングをし、ウォーキングをし、体幹トレーニングをし、ストレッチをするように、キリストの身体も健やかであるために、日々の鍛錬の積み重ねが欠かせません。怪我や病気になった時の対処も大切ですが、怪我をしないための身体作り、病気にならないための体質作りはより重要です。
そして、そのためには即効性のある薬よりも、ゆっくりじっくり身体の中心から鍛えていくトレーニング、体質そのものを整えていく地味で地道な取り組みこそが必要なのではないでしょうか。
使徒パウロはミレトスの港で、エペソ教会の長老たちにこう語りかけました。
「私は神のご計画のすべてを、余すところなくあなたがたに知らせたからです。」(使徒20・27)
教理を学ぶこと。それは「神のご計画のすべて」を知ることです。
創造から終末と完成に至る、父・子・聖霊の三位一体の神様の救いのご計画のすべて。そのご計画を私たちに誤りなく十分に伝えている聖書。神によって造られ、愛され、しかし罪の中に堕し、救いを必要としている私たち人間とこの世界。私たちの救いのために来られた御子イエス・キリストの人格と御業。その御業の中心にある十字架と復活。聖霊が私たちにもたらしてくださる救いの御業と、その働きを担う教会の使命。そして、神の救いの完成としての新天新地の希望。
これら一つ一つについて、聖書を通して学び、また聖書に基づいて教会が生み出してきた教理の言葉を通して学ぶ。その繰り返しを通して、私たちは神様の救いのご計画の全体をいよいよ深く知り、それによって福音宣教への力を増し加えられ、希望をもって歩むことができるのです。
教会には、使徒信条やニカイア信条、ルターの小教理問答やハイデルベルク信仰問答、ウェストミンスター信仰告白や大小教理問答など、歴史の中で生み出されてきた教理の学びの宝庫がたくさんあります。これらの書物には、聖書の豊かな福音のエッセンスがギュッと凝縮されています。ですから最初は少々硬く、味気なく、とっつきづらく感じるかもしれません。
けれども、教理を学ぶための手引きや解説書も数多く出版されています。これらの助けを借りながら一人でもコツコツと、あるいは教会の交わりの中でじっくりと取り組んでいけば、必ずや豊かな恵みと益をもたらしてくれるでしょう。
教理の学びを通して信仰の足腰を鍛え、体幹をトレーニングして、キリストの身体がいよいよ健やかでしなやかな歩みへと導かれるように祈ってやみません。

 

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