信じても苦しい人へ 神から始まる新しい「自分」 第7回 「ありのまま神学」①~人間の側から見た「ありのまま」~

中村穣 (なかむら・じょう)
2009年、米国のウエスレー神学大学院卒業。帰国後、上野の森キリスト教会で宣教主事として奉仕。
2014年、埼玉県飯能市に移住。飯能の山キリスト教会を立ち上げる。2016年に教会カフェを始める。
現在、聖望学園で聖書を教えつつ、上野公園でホームレス伝道を続けている。

 

この回から、「ありのまま神学」について三回に分けてお話しします。一回目は、人間側から見た「ありのまま」についてです。じつは、私たちはこの「ありのまま」の意味を少し違ってとらえているような気がしています。そのうえで、よく言われる「神はありのままの私を愛してくれる」ということについて、考えてみたいと思います。

誰でも他の人には触れられたくない弱さ、隠したい過去の経験があります。しかし、罪や弱さを人間が隠していると、それがだんだん姿を変えていきます。しようがないと言い訳をしたり、自己嫌悪になったりします。そして、最終的には自分の罪を見えなくさせてしまうことがあります。
確かに罪は見えなくなるのですが、罪の影響は自分の中に残ります。何か問題があると簡単に人のせいにしてみたり、謙遜さを装って自分を殻に閉じ込めて守ったりしてしまいます。神様に言い訳ばかりして、従うことができなくなるのです。教会の兄弟姉妹の話も、愛をもって聞けなくなっていきます。そしてついに、自分のことばかりを考えていることにすら気づかないようになってしまうのです。神様の声が聞こえなくなってしまいます。
神様は、確かに「ありのまま」の私を愛してくれています。でも、このような私の混沌を「そのまま」の状態にしておくことは神の愛ではありません。「ありのまま」とは、神が見ておられる今の私の姿ですが、神様が「ありのまま」でいいよと仰っていることを隠れ蓑として、私たちは混沌とした「そのまま」の状態でいいと思ってしまうことがあります。本来は、「ありのまま」に自分を隠すのではなく、「そのまま」の状態を主の十字架のもとに差し出しなさい、と主は愛をもって言っておられるのです。
しかし悪魔は、神様の愛の招きを隠し、「そのまま(混沌の状態のまま)でいいんだよ」と、間違った方向に私たちの目をそらさせるのです。私たちは勇気をもって悪魔の声を退け、神様の愛を受け取る必要があります。
「ありのままでいるのではなく、ありのままを主にあって認める。」
C・S・ルイスの『悪魔の手紙』は、先輩悪魔が人間をどう堕落させるかを若手悪魔に教えるという設定で書かれた小説です。先輩悪魔は人間の弱点を二つ挙げて、効果的な堕落のさせ方を教えています。一つは、人間に“過去”を見せることです。人間は過去を見ると後悔しか残らず、何もできなくなるというのです。過去の罪や人に見せられないようなものを呼び戻し、ありのままを主にあって認めることができないようにさせるのです。もう一つは、“未来”を見せることです。人間は未来を見ると、不安しか残らないというのです。「本当にありのままで自分は受け入れられるのか」「もしかしたら何か失敗をして、主に認められなくなってしまうのではないか」と考え、心が不安でいっぱいになるというのです。
反対に人間が力強くなり、悪魔が手に負えなくなるのは、人間が“今”を見ることだと、先輩悪魔が若手悪魔に話します。なぜなら今を生きるキリストがそこにおられ、人間がイエス様と出会い、永遠を体験するからだというのです。
今回私たちが考えている「ありのまま」の自分とは、この“今を生きる私”のことです。私たちが過去に囚われず、未来を見て不安になるのでもなく、そのままの私をしっかり主の前に認め、イエス様と共に生きていく道を歩む決心をすることです。「ありのまま」とは、自分をあきらめるのではなく、神様の信頼への入り口を表す言葉です。
あなたは、もっと素晴らしい誰かになるために生きているのではありません。“ありのままのあなたが素晴らしい”と神様は認めておられます。なぜなら、あなたに手を差し伸べるイエス様が共におられるからです。イエス様があなたを混沌から助け出してくださるのです。たとえ、あなたの中に希望がなくても、主があなたの希望となってくださるのです。主の臨在の中に自分自身を見いだすとき、希望が生まれます。その入り口がここにあります。
「そのまま」の姿で十字架の前に下るときに、「ありのまま」のあなたを主がずっと呼んでくださっていたこと、そしてあなたをあきらめず、愛し続けてくださっていることを確信することができます。イエス様の十字架のもとに「ありのまま」の自分を見いだしたとき、主が決してあなたを見捨てない、という約束を受け取ることができます。
「わたしは、もはや彼らの罪と不法を思い起こさない」と言われるからです。罪と不法が赦されるところでは、もう罪のきよめのささげ物はいりません。
へブル人への手紙一〇章一七~一八節