リレー連載 ことばのちから 第7回 言葉と文化

今日、「ことば」そのものがもつ意味が薄くなってきているのではないでしょうか。そんななか、「いのちのことば」という名を冠する雑誌としても、その「ちから」について改めてご一緒に考えていきたいと思います。第7回はシンガーソングライターの沢 知恵さんです。

「言葉の力」という随筆に出会ったのは、国語の教科書でした。大岡信さんによるもので、染色家の志村ふくみさんとの対話をもとにしています。
桜から染められたという美しいピンク色が、実は花びらではなく、「黒いごつごつした」桜の木の皮から取り出されたと聞いて、大岡さんは「体が一瞬ゆらぐような」不思議な感じがしたそうです。言葉も「一見したところぜんぜん別の色をしているが、しかし、本当は全身でその花びらの色を生み出している大きな幹、それを、その一語一語の花びらが背後に背負っている」と。
私はこれを読んで、心から感動しました。言葉って、なんて健気で奥深いものなんだろう。それからは、花や葉っぱだけでなく、枝や幹を愛でるようになりました。冬の裸木が大好きなのは、その影響からかもしれません。凛としたたたずまいに、いのちの力を感じるのです。「言葉の力」は、三十年以上経ったいまも、光村図書出版の『中学国語2』に載っているそうです。
「あなたの母語は?」谷川俊太郎さんにお会いするたび、きまって聞かれる質問です。日本人の父と韓国人の母の間に生まれ、日本、韓国、アメリカで育ち、十歳までに三つの言葉を身につけた私は、日本語だけで育った谷川さんにとって、興味深い対象のようです。

「母語」は英語で“mother tongue”。つまり「母の舌」です。だとすると、私の母語はまちがいなく韓国語です。もはや日本での生活が一番長く、上手なのは日本語ですが、韓国語を話すと、からだがほぐれて楽です。最初の記憶がある二歳から六歳まで話した韓国語は、身体的にも決定的な影響を及ぼしたのでしょう。
韓国で生まれ育った母は、戦後初めての日本人留学生である父と大学のキャンパスで出会いました。そして、日本語をひとことも話せないで、二十歳を過ぎて日本にやって来ました。がんばりやの母は、「外国人による日本語弁論大会」で優勝し、子育てがひと段落すると、日本の大学院に入って日本の牧師になりました。自叙伝『チマ・チョゴリの日本人』は、読売ヒューマンドキュメンタリー大賞で入賞もしています。母が話すのを聞けば、だれもが日本人と思うくらい完璧な日本語です。それでも私にとって母の日本語は、独特のリズムとイントネーションをたたえていて、なんだかゆかいです。言葉がいちいちはずむのです。
国から国へと移り住むたび、家庭内言語も移り変わりました。たとえば、小学一年生のとき韓国からアメリカに行ったときは、はじめは韓国語だったのが、私と妹が現地の学校で少しずつ英語を学んでくると、その習熟度にあわせて、両親もだんだん家の中で英語を話すようになり、最終的には一〇〇%英語になりました。
今度は小学三年生のとき。日本に来たら、家でもじょじょに英語から日本語に切りかわりました。あたりまえだと思っていたことが、実はとても珍しいことだと気づいたのは、アメリカの日系人家族を訪ねたときです。その家の子は、一度も日本に行ったことがないのに、日本語が流ちょうに話せました。学校では英語、家では日本語だったのです。私は驚きました。
アーサー・ビナードさんにこの話をしたら、「すばらしいね。あなたはいつも生態系の一部でいられたんだから」と言われて、有頂天になりました。なんてすてきな表現!虫や花にでもなった気分。言葉が文化と切り離されたものではなく、いつも花びらと幹がしっかりつながっていたのだなあ。

最後に身につけた日本語は、私にとって永遠の外国語です。なんの不自由もなく話し、読み書きし、うたっていても、いつも外側から接している気がするのです。ときに根なし草のような心もとなさを感じることもあります。その分、日本語の響きの美しさには、人一倍敏感で貪欲なつもりです。どっしり根をはった日本語に出会うと、あこがれとともに嫉妬にかられます。私には一生手に入らないもの。コンプレックスをばねに、私にしかうたえない日本語をうたっていきたいです。たくさんの文化を生きてきた「私」という幹から発せられる私だけのうたを。
おとなになって、母にたずねました。「いったい私をナニジンに育てたかったの?」母は即答しました。「民族や国籍なんて、たいした問題じゃないわ。あなたが信仰をしっかり受け継いでくれるかどうかが大事なの」。あんまりかっこいい答えだったので、返すことばが見つかりませんでした。アーメン!