「ダビデの子」イエス・キリスト 第6回 「ダビデの町」

三浦譲
日本長老教会横浜山手キリスト教会牧師、聖書宣教会聖書神学舎教師

イエス・キリストの称号「ダビデの子」の旧約聖書的背景を、これまでサムエル記、列王記、歴代誌、詩篇、イザヤ書と見てきました。旧約聖書のすべてを網羅できたわけではありませんが、いよいよ新約聖書におけるイエス・キリストとダビデの関係を見ていきます。

*ルカ1―2章のイエス・キリストの誕生の記事において、「ダビデ」の名が登場します。マリヤの婚約者のヨセフが「ダビデの家系」だと紹介された(ルカ1・27、 2・4)うえで、誕生するイエスについてこう語られます。「神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります」(ルカ1・32)。「救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた」(ルカ1・69)。あのⅠサムエル7章におけるダビデ契約の成就です。
そして、今回注目するのが、イエス・キリストが誕生する「ダビデの町」(ルカ2・4、11)についてです。クリスマスの時に有名な聖句です。「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」(ルカ2・11)。確かに、昔、ダビデがまだ無名にして生まれたのはベツレヘムだった(Ⅰサムエル17・12)のですが、旧約聖書を見るとき、なぜベツレヘムが「ダビデの町」なのだろうと思ってしまいます。

「ダビデの町」エルサレム
実は、旧約聖書においては、「ダビデの町」はいずれもエルサレムでした。「しかし、ダビデはシオンの要害を攻め取った。これが、ダビデの町である」(Ⅱサムエル5・7。Ⅱサムエル5・9、6・10ほか参照)。また、それは外典においても同じでした(Ⅰマカバイ1・33、2・31ほか)。つまり、当時、「ダビデの町」は、宗教的・政治的な意味においてイスラエルの中心地エルサレムを指す言葉として機能していました。しかし、なぜルカはベツレヘムを「ダビデの町」と呼ぶのでしょう。

「ダビデの町」ベツレヘム
そのような視点をもってルカ2章4節をギリシャ語原文に従って読んでみると、「おもしろいな」と思います。ギリシャ語原文に従うと、こうなります。「上って行った。ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのダビデの町へ向けて。それはベツレヘムと言われている」(ESV訳 “Joseph also went up from Galilee … to the city of David, which is called Bethlehem”)。一瞬のことかもしれませんが、ルカの福音書の最初の読者(/聴衆)たちはこの一節を読み(/聴き)ながら、最初「そうか、ヨセフたちもダビデの町『エルサレム』に上っていくのか」と予期したかもしれません。ところが、なんとダビデの町は「ベツレヘム」だと聞かされます。それは、読者(/聴衆)たちにとって少なからずの驚きであったのでは、と想像します。

ミカ書5章1―2節
マタイ1―2章のイエス・キリストの誕生の記事においては、東方の博士たちがキリストの誕生を祝うために「エルサレム」にやって来ます。しかし、そのとき、旧約聖書のミカ5章2節が、キリストは「ベツレヘム」において誕生することを言い当てます。ルカ2章4節における「ダビデの町ベツレヘム」という表現にも、ミカ5章1―6節(特に1―2節)の預言が暗示されているのではと思います。
1今、軍隊の娘よ。勢ぞろいせよ。とりでが私たちに対  して設けられ、彼らは、イスラエルのさばきつかさの  頬を杖で打つ。2ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で  最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのた  めに、イスラエルの支配者になる者が出る。その出る  ことは、 昔から、永遠の昔からの定めである。
(ミカ5・1―2)
実は、この預言は、「ダビデの家系につながるのだけれども、エルサレムにおけるダビデ的な王とは対照的なイスラエルの支配者が将来登場する」と言っているのです。この預言には三つのコントラストがあります。(1)「その頬を打たれるイスラエルのさばきつかさ」と「イスラエルをやがて救い出す将来のイスラエルの支配者」の対比、(2)「偉大な町エルサレム」と「小さな町ベツレヘム」の対比、(3)「軍隊の力に頼るイスラエルの王」と「主の力に頼る将来のイスラエルの支配者」(4節)の対比です。

ルカの福音書では、なぜ「ダビデの町」が「ベツレヘム」なのか。「イスラエルを破滅へと導いたエルサレムの王たちとは対照的なやがての王。その王がベツレヘムから出てきた。ミカが預言したとおり」ということが暗示されているのではないかと思うのです。

 

「ダビデの子」イエス・キリスト 第7回 「イエス・キリストの系図―ルカ版」