あたたかい生命と温かいいのち 第十四回 止揚学園に息づいている心

福井 生

「どうして止揚学園の人たちはあんなに落ち着ついて食事をすることができるのですか」
止揚学園に見学に来られたお客様がそんな質問をされました。その日は各テーブルで鍋を囲み、みんなで温かい食べ物を、気分も温かくしてお客様と一緒にいただきました。
「ここがみんなにとっての家だからです」
私はそのようにしか答えられませんでした。
「一人一人のケースに応じて、食べ方のマニュアルを策定し、職員が対応しています」。そうお答えすれば、お客様も、温かさは感じられませんが、一応は頷いてくださったのかもしれません。そのとおりです。しかしそれだけで、知能に重い障がいをもつ仲間たちが落ち着いて、笑顔で食事の時間を過ごしてくれているとは思えません。食事の時間に限らず、一日を通して、何かが、息づいているように思うのです。それは、一+一=二というような合理的なものではないのです。
人、そして人と人の関係は計り知れません。その計り知れないものに、目盛りという基準をつけようとすることは、裁断機で心の大切な部分を強引に切り落としてしまう、そんな作業に思えてしまうのです。
本当は切り落とされた部分にこそ、人の心を温め、人と人を繋げる作用があるのです。その作用は一+一=二どころか、答えは、一〇にも二〇にも広がっていくのです。
止揚学園にはその心の部分が息づいていると感じています。人はだれもが自らの心の温かい部分を保ち続けたいと願っています。そんな安心できる場所に人々は帰っていくのです。この場所で初めてホッと落ち着くことができるとするならば、それは仲間たちにとっての家なのです。

去年の召天者記念礼拝運動会のことです。全員で大きな輪をつくり「ワクワク行こう」というオリジナルの曲でフォークダンスをしました。初めての方でも踊れるよう、知能に重い障がいをもつ仲間の加藤さん、新任職員の稲田さんが台の上でお手本を見せてくれました。稲田さんは、加藤さんと出会って、長い年月が経っているわけではありません。しかし、二人の笑顔は青空の下、キラキラと輝きました。決して上手ではなかったのですが、神様が二人を出会わせてくださった、その喜びにあふれていました。
皆はその笑顔に魅せられ、神様の優しい愛にすべての人が包まれていることの喜びから心が開かれ、ワクワクしてくるのでした。加藤さんと稲田さんは、上手に踊るためのお手本ではなく、手と手を繋いでともに歩んでいくその喜びのお手本になったのです。目に見える技能だけで、一+一=二であることのみに目を向けていては、人の心は動かされないのです。

「止揚学園に息づいている心の大切な部分は、そこに住む私たちだけのものではありません」
私は続けてお客様に話し始めました。
毎年新蕎麦の季節になると、佐渡島から蕎麦を打ちにきてくださる方がおられます。自ら収穫した蕎麦を、蕎麦打ちの道具と一緒に持って来てくださるのです。仲間たちに囲まれて、蕎麦をこねる作業が始まると、仲間たちは師匠に弟子入りしましたと、得意顔です。みんな興味津々です。なんといっても今自分たちがこねている蕎麦粉の塊がお昼ご飯に出されるのですから。私は蕎麦をこねる仲間たちの手を見ながら、温かい心も一緒にこねられていることを感じたのです。だからものすごく美味しそうなのです。
蕎麦打ちの仕上げは包丁で切ることです。仲間たちは、細く切ることが難しく、職員が手伝っても太い蕎麦になりました。しかし「こっちのほうこそ本当の蕎麦の味がわかります」と、師匠が断言してくださいました。
その日の昼食は普段よりもみんな落ち着いているどころか、集中して、いろんな太さの蕎麦をいただきました。もし蕎麦の太さを均一化することだけを正解とするならば、仲間たちの眼差しはこれほど輝いていなかったかもしれません。
「たくさんの方々が止揚学園の仲間たちと、心で繋がろうとしてくださいます」。私は、最後にもう一度お客様にお伝えしなければならないと思いました。
「ここにはみんなの心が住んでいるのです。ここは、みんなの家なのです」。お客様は、頷いてくださいました。何かを感じてくださった頷きでした。
私は心の住人が、新たに一人増えてくださったことを思い、神様に感謝したのでした。
そして、これからも仲間たちに繋がろうと、たくさんの方々がさらなる心の住人になってくださればと、神様にお祈りするのです。