サバーイ・テ?(しあわせ?)
 カンボジアで考えたこと
第2回 虐げられた傷が癒えるまで

サバーイ・テ?(しあわせ?)
入江真美
Discipleship Training Centre在学中(シンガポール)
元国際飢餓対策機構海外駐在スタッフ

 カンボジアと聞いて、地雷の他に、ポル・ポト時代(一九七五~七九)を思い出される人もいるかと思います。今でも多くの歴史家がいったいそこで何が起こり、どのような思想的背景があったのか、はっきりとしたことはわかっていません。

ポル・ポト政権下

 その頃、首都プノンペンはゴーストタウンのようになり、人々はみな地方での強制労働に刈り出されました。地域差はありますが、家族はばらばらにされて劣悪な環境におかれ、毎日過酷な(十二~十五時間)農作業を強いられました。文明・教養・芸術・工業は否定されて、クメール語以外の言語を話す者、医者・教師などの知識人・芸術家・歌手・映画俳優なども殺害の対象となりました。メガネをかけているだけで、学問をしていた「証拠」となり、殺されたといわれています。少年兵が人々の管理に当たり、拷問でなくなった人も大勢います。中国共産党の文化大革命に影響を受けたとも言われますが、とにかくポル・ポトというリーダーの下に、三年七ヶ月の間に、二百万とも六百万とも言われる人々が殺され、それも自国民の手によってなされたという悲惨な歴史があります。

 FHI/Cのスタッフの中に、男性スタッフSさん(三十三歳)がいます。彼の住んでいた村を含め、カンポート県のあたりはクメール・ルージュ(ポル・ポト派の政府組織)の支配下にありました。彼の父親もクメールの戦士として内戦に参加していました。当時七、八歳だった彼は両親と二人の姉、兄と弟の七人家族でした。父親はベトナム兵に殺され、彼らも村を追われ、タイとの国境にある難民キャンプに避難することになりました。

憎しみの中で

 死体の山を乗り越えて、ベトナム兵に見つからないように山の中を歩き続けました。途中、川を渡らなければいけなくなりました。ベトナム兵が山の上から狙い撃ちをしてきますので、昼間川を渡ることは難しいことです。中州までなんとかたどり着いて、一晩その中州にある木の枝などにつかまりながら川の中で攻撃がやむのを待ちました。反対側にたどり着いた時には、二人のお姉さんはもう力尽きて、流されていました。母親は、一番下の弟を抱いていることができず、あきらめて手を離したのですが、なんと弟は自力で泳いで、反対側の岸にたどり着いたそうです。タイとの国境の難民キャンプについても、まだ困難は続きました。食糧などの配給は、女性からされていたそうです。母親以外みな男の子が残っていたので、彼らは髪の毛を伸ばし、女の子のふりをして配給の列に並んだと言います。

 なんとか生き延びることができた彼は、父を殺し自分たちを苦しめたベトナム兵への憎しみでいっぱいでした。仕事もなく、女遊びや酒を求めてチンピラのような生活をしていたときに、福音を聞いたのです。イエスを受け入れて以来、日常生活のあり方がすっかり変わりました。現在は、村の教会リーダーを励ます働きをしています。

歴史が残した傷

 私の同僚である外国人スタッフの中には、彼のキリスト者としての成長のスピードがダウンしてきたと嘆く人がいました。聖書を学びたい、教会のリーダーとなりたいと表明しつつも、彼は経済的な安定つまり現在のNGO(非政府組織)スタッフとしての職を手放すことができない。信仰が足りないというのがSさんへの評価でした。ついにはSさんとの関係がこじれてしまいました。

 一見すると穏やかでそれこそ「普通に」「元気に」生活しているカンボジアの人々ですが、Sさんのような背景を、ほとんどの人が持っています。また、そのような時代をなんとか生き延びてきた親に、子どもたちは育てられています。彼らの歴史や背景を理解しようと努力し、外見からは到底想像できない深い傷を受けている彼らを、まるごと受け入れて愛することができなければ、彼らと共に働くことはとても難しくなります。時に、外国人である私たちのの「教会文化」の価値観で彼らを判断・評価してしまうからです。

 ふとした拍子に、彼らの不幸な歴史の傷跡を目の当たりにし、不可解な行動に驚く時があります。主イエスの福音が彼らに届き、癒しがなされていくのを、忍耐を持って見ていくことも大切なことだと思わされています。