連載 ふり返る祈り 第15回 そもそも自分は……

あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。
箴言3章6節

斉藤 善樹(さいとう・よしき)
自分は本物のクリスチャンではないのではないかといつも悩んできた三代目の牧師。
最近ようやく祈りの大切さが分かってきた未熟者。なのに東京聖書学院教授、同学院教会、下山口キリスト教会牧師。

神様、私たちが判断に迷った時は、私たちの思いを原点へと戻してください。そもそも自分はここで何をやっているのか、何のためにしているのか、何に向かっているのか、もう一度思い出させてください。そして、あなたの御前に立つ時にあなたに喜んでいただけるのはどのような私の行動であるか、考えさせてください。そうすれば、主よ、私の今すべきことが見えてきます。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。

もう二十年近くも前ですが、かかりつけの医院で診察を受けていると、医者がポツポツと語り始めました。「私は物事に迷うと、そもそも自分は何でこれをやっているのかと、自分の原点に戻ろうとします。ね、そうすると、今の自分がすべきことが見えてくるんです。」
問うてもいないのに医者が突然そう語り始めたので、少し驚くとともに、私は何か天の声を聞いているような気持ちになりました。この医者は通常の医療だけではなく、診療外の時間に、健康についての講演会を無料で開いていました。それも落語風に面白おかしく話すので、けっこう人が集まっていたということです。このお医者さんは自分なりの信念を持って医療活動をしていたのでしょう。私はその時、自分がどのような状況に置かれていたか覚えていないのですが、何かに迷っていたのに違いありません。この言葉が鮮明に心に残ったのです。

私たちは、本来歩いてきた道筋からそれやすいものです。自分の子どもを育てる時も、最初は元気でさえいてくれたらいい、幸せになってくれたらいいと思って、そのために子育てをしていますが、だんだんと欲が出て、勉強もできてほしい、スポーツもできてほしい、もっと男の子らしくあってほしい、女の子らしくあってほしいと願うようになります。一応、それらの希望はこの子自身のためだと考えているつもりですが、果たして真にそうなのか……。そもそもこの子自身の幸せを願うことが第一だったのではないかと、考えさせられることしばしばです。
あるいは、仕事をしている時でも、そもそもなぜ自分はこの仕事を選んだのか。さまざまな事情が生じてきて、本来自分がしたいと思っていたことと全然違う方向に進んでいってしまうこともあります。教会でも似たようなことが起こるかもしれません。そもそもこの活動は何のためにやってきたのか……考えさせられます。

私が神学校を卒業して、今年でちょうど三十年になります。牧師という務めを長らくしてきましたが、この職業にはさまざまな役割が伴います。牧師ほどバリエーションに富んだ役割を持つ職業はないかもしれません。教会内にはさまざまなニーズがあり、牧師はそれに応えていきます。こまごまとした雑務、複雑な相談ごと、幅広い年齢層への伝道や教育、自身の聖書の勉強と説教、教会活動の調整役などなど。やることが多いだけに、そもそも自分は何のためにこれらをやっているのかと、その主旨を見失ってしまうことなどしょっちゅうです。本当は牧師こそ、これを見失ってはいけない立場で、そもそも教会は何のために存在し、どこに向かっているのか、常に焦点を定めておかなければならないはずです。
社会学や心理学の論ではありませんが、私たちの営みが何であれ、そこに今の状態を維持しようという力が働きます。それは本来、私たちの生活を安定させる力なのですが、時にそれが少々ぶれても、そのまま維持しようとします。そんな時、新たなことを始めるよりも、今までしてきたことをやめるほうが難しいことが少なくありません。目先の必要に迫られて、本来の必要に応えることができなくなるのです。もちろん、緊急の目先の必要があります。それらは本来の目的に沿うものでしょう。けれども、真に必要なこととは別に、今までの伝統を守るとか、人々の歓心をキープするとか、自分のプライドを守るとか、いつか主の前に立って地上での働きを振り返った時に、それほど重要だと思われないことも少なくないと思います。
祈りのうちに自分の今までしてきたことを一つ一つ振り返ることは、私たちにとってたいへん有益です。私はよく深呼吸をして、一日のうちで自分の語ったこと、行ったことなどをふり返ります。そして、そもそも自分の願ってきたことや神の御心だと信じてきたこととどれくらい一致しているか、あるいはどれくらいそれているか、想いを巡らすのです。主は優しく御手を私たちの生涯に触れてくださり、正してくださる方です。