スピリチュアル・ジャーニー その後 ~真の人間性の回復へのプロセス~ 第十一回 旅の中の出会いから学ぶ①

 

坂野慧吉(さかの・けいきち)
1941年、東京都生まれ。その後、北海道に移住。福島高校、東京大学卒業。大学生時代にクリスチャンとなり、卒業後、聖書神学舎(現・聖書宣教会)に入学。その後、キリスト者学生会(KGK)の主事を経て、1971年より浦和福音自由教会牧師。

二〇〇一年、スイスのラサでのセミナーを終えて、私は電車でイタリアに向かった。行ったことがない地をひとりで旅をするのはかなりの緊張を伴う。電車からスイスの山々を見ながら南下する。ミラノに着き、苦労しながらホテルを見つけ、チェックインをした後、部屋で一息ついた。ブレラ美術館でさまざまな絵画を見て、日曜日にはカトリック教会の礼拝に参加した。ミラノにはその当時、日本語教会はなかった。その後、フランスのリヨンで開かれた「ヨーロッパ日本人キリスト者の集い」の中で、韓国のクリスチャンが「ミラノに日本人伝道が始まりますように」という祈りの課題をあげていた。後に祈りが主によって聞かれて、ミラノでの日本語による伝道のために、内村伸之・まり子先生ご夫妻が招かれることになった。

私はミラノを後にして、ヴェネツィアを経由してローマに向かった。私がどうしてもイタリアに行きたいと思ったのは、ローマ郊外にある「カタコンベ」を見たかったからである。ローマ・テルミニ駅から近いホテルに泊まり、翌日地下鉄とバスを乗り継いで、ようやく、「サン・カリストのカタコンベ」に着いた。入り口から下に降りると、そこには小さい子どもの墓も含めて、多くの墓が見えた。また、地下で礼拝をしていたと思われる場所もあった。今から千数百年も前に、ローマ帝国の迫害を受けて、地下に逃れ、このようなところで、信仰を守り続けたクリスチャンたちの生活を想像した。

今は「コロナ禍」で礼拝が自由に持てない試練はあるが、初期のキリスト教会の試練はその数倍も大変な迫害の中で、礼拝を守り通した人々のことを思うと、自分たちは恵まれていることを感じる。

その後、アッピア街道を通ってローマに向かった。途中で「ドミネ・クォ・ヴァディス教会」という小さな教会の中に入ってみた。礼拝堂の前面に、使徒ペテロがイエス・キリストに「クオバディス、ドミネ」(主よ。どこに行かれるのですか)と尋ねるシーンの絵が壁に描かれていた。これは、シェンキェヴィチの小説『クォ・ヴァディス』から想像して描かれたものである。迫害を逃れ、ローマから出ようとするペテロがイエスと出会う場面である。主イエスは、「あなたがわたしの民を見捨てるならば、わたしはローマに行き、もう一度十字架にかかる」と答えた。ペテロはそれを聞いて、悔い改めてローマに帰り、やがて殉教の死を遂げるというストーリーである。礼拝堂の前面には、「逆さまに十字架につけられたペテロ」が描かれていた。

その後、バチカンの「サン・ピエトロ寺院」を見学した。とても大きな豪華な教会であった。翌日は「サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会」を見学した。この教会の正面の祭壇の下には、ペテロが牢獄に入れられた時に繋がれていた鎖がガラス箱に入れられていた。この教会の中には、ミケランジェロが制作した「モーセ像」が置かれていた。

ローマでの数日を過ごし、次の目的地であるイギリスに向かうため、電車で「レオナルド・ダ・ヴィンチ国際空港」に向かった。かなり時間の余裕を見ていたので早めに空港に到着し、ゲートに向かった。ところが電光掲示板を見ると、私が乗る予定の便が「キャンセル」になっていた。どうしたらいいか途方に暮れた。近くにアジア人と思われる若い女性たちがいたので、「困ったね。どうしようか」と英語で声をかけ、いろいろと話した。

彼女たちはフィリピン人の姉妹で、それぞれフィリピン、イギリス、イタリアで生活していた。久しぶりに三人姉妹が一緒にシチリアに旅行し、このあとイギリスに行く予定だと言う。私も、イタリアのカタコンベを見るために来たこと、日本では牧師をしていることなどを話した。その内に掲示板は、「キャンセル」から「遅延」に変わったので、しばらく待ってみようということになった。その三姉妹の長女は、mercyという名前で、少し離れたところで小さな本を読んでいた。私は近づいて、「何を読んでいるの?」と聞くと、それは聖書通読のためのテキストで、「called and gifted to serve」(仕えるために召命を受け、賜物を与えられた)という題の本であった。少し中身を見せてもらったが、聖書的でいろいろと考えさせられる内容であった。その後、飛行機は出発し、かなり遅れたが私たちは無事にロンドンに着いた。

私はこれから始まる旅の中で、神から自分に与えられた「召命」とは何か、またその召命を果たすために与えられた「賜物」は何かを、祈りつつ考える時が与えられたと思った。
「神の賜物と召命は、取り消されることがないからです。(ローマ人への手紙一一章二九節)