詩画集『いのちより大切なもの』出版記念
星野富弘氏を知る人びと ■四十六年前に出会って

吉田欣司
福音伝道教団 太田キリスト教会 牧師

私は、群馬県太田市にある工業高校を卒業し、小さい頃から憧れていた自動車を作っている会社(富士重工)に入社しました。社会人となった私は人間の生きる目的や意味を考えるようになり、その回答を求めてはいろいろな人にその答えを聞いて歩きました。
会社は楽しく、また時間があるときはボランティア活動にも参加しており、ある善行により、模範社員として表彰されたりもしていたのに、満たされないものがあったのです。
そのようなとき、不思議な導きにより、福音伝道教団太田キリスト教会に通うようになりました。教会に通い始めて間もなく、会社にも慣れてこれからというときに、大きな交通事故に遭い、三か月の入院生活を送ることになってしまいました。二か月後に松葉杖が使えるようになり、久しぶりに太田キリスト教会に行ったとき、私はそこで星野富弘さんにお会いしたのです。

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当時、教会を牧会していたのは小澤薫牧師で、次男の潔さんが近くの男子高校(県立太田高校)の体育の教諭をしていました。大学の後輩でもある富弘さんと、とても親しくしておられたようです。また、その頃の太田教会は人も少なく、女性の副牧師を迎えていたので、少々時間にも余裕もあったのでしょうか。私が教会を訪ねた日、高校の体育部員が合宿場として教会を使用していました。副牧師が食事や風呂の面倒を見ていたようです。
やがてゾロゾロと体操部のメンバーが帰って来ました。最後にコーチとして指導していた星野富弘さんが来たのです。中でも体操選手らしい体格をしていて、ショートパンツをはき、食事をした後、逆立ちで練習場である高校に行く姿には圧倒されました。死に損なった松葉杖の自分が情けなく、悲しく思ったことは今でも忘れません。
合宿中に星野さんと話してわかったのは私と同年齢だということで、もっといろいろ話をしたかったのですが、何しろ近寄りがたい存在で、そのほかのことはあまり覚えていません。

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当時は副牧師も厳しく、体操部の部員にはその期間に開かれている教会の集会に出るように言っており、それが食事と風呂と寝場所(会堂)を使用する条件だったようです。ある日の集会に、私も一緒に出てみました。体操部員は皆疲れ切っていて、ほとんどの人が寝ていました。しかし最近、星野さんと話したとき、四十年前の薫牧師のメッセージを覚えていたのには驚きました。それは使徒の働き16章、投獄されたパウロとシラスが真夜中に賛美していた話でした。聞きながら、牢獄の中でよく賛美できたと思った、と述懐していました。私も聞いたわけですが何一つ覚えていませんでした。
当時は、あまりにも堂々と元気いっぱい生きている星野さんを見て、彼がクリスチャンになるのは難しいだろうと心の中で思っていました。私も教会では牧師を困らせてばかりでした。しかし、彼と会って間もなく洗礼を受けクリスチャンとなりました。彼もいろいろなことがありましたがクリスチャンになり、世界に知られるような人物となって、主に用いられていることを考えると、不思議な気持ちになります。後々、副牧師から聞いたのですが、一九六九年に天に召された小澤薫牧師は、召されるまで朝夕、私と星野さんのために祈っていてくださったそうです。祈りは死なないと言われますが、そうだと思います。彼は有名になりましたが、今私は、薫牧師の後継者となって地方伝道に励んでいます。

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また、星野さんは実家の裏山にある墓地の十字架に、「凡て勞する者・重荷を負ふ者、われに來れ、われ汝らを休ません」(マタイ11・28/文語訳)とあるのを、堆肥を背負って登りながら見ていたそうです。小澤薫牧師は、戦中戦後に、栃木県にある足尾教会を兼任牧会していました。その足尾教会員である神部亮・あいさんご夫妻に男の子が誕生したのですが、すぐに召され、先のみことばを墓標に書いて、神部家の墓地に立てたのです。夫妻はなぜ赤ちゃんが死ななければならなかったのかと牧師に問いかけたそうです。そのときは、分からないと答えたそうです。この赤ちゃんの死も、実は星野さんが救われる神の備えた救いへの布石だったと今は分かります。
時々星野さんが、初めて来たこの太田教会に奥様と来られて、証ししてくださるのを聞くのが楽しみです。四十六年前に出会った私たちが今も生かされていることを感謝しつつ、共に主にあって用いられるように祈っています。