終末と再臨 終末の時代にどう生きるべきか

レフトビハインド・燃える地球
小西 直也
単立 北本福音キリスト教会 牧師

 2001年は9月11日にアメリカで同時多発テロが起こり、それに続いてアフガン戦争、また年末にはイスラエルとパレスチナが武力衝突し、私たちは世の終わりが近づいていることを肌で感じました。

 クリスチャンに限らず、一般の人々も自分たちの将来について大きな不安を感じています。文明や産業・技術が発達して幸福になるはずの私たちの生活が、逆に、環境破壊の問題、核兵器の開発による人類滅亡の危機感などによって脅かされているからです。将来への不安を感じるとき、人は何か将来について教えてくれるものを探して、占いやオカルトやいろいろな予言者と称する人々の言葉を求めます。

 しかし、クリスチャンには約束したことを必ず成就される神の言葉、聖書が与えられています。主イエスが言われたように確かに「この天地は滅び去ります。」(マタイ24:35)この厳粛な事実を受け止めながら、私たちは神から与えられた今のいのちをどのように生きるべきか考えてみましょう。

 一、人に惑わされない

 主イエスは十字架にかかる前にオリーブ山で弟子たちから世の終わりの前兆について質問を受けました。それに対して主は「人に惑わされないように気をつけなさい」(マタイ24:4)と言われました。そして偽キリストや偽預言者が多く現れると予言されました。事実、今日まで数多くの偽キリストが現れました。それは私たちには将来のことを知りたいという強い願いがあるからです。弟子たちも同じ思いがあり主に尋ねましたが、主イエスは、その時がいつなのかは、父なる神がご自身の権威によって決められることで、私たちは知る必要がないとはっきり言われました(マタイ24:36)。

 もし私たちが、いつ世の終わりが来るのかということを心配するあまり、主が一度この世に来られて私たちのためにあがないの業を十字架上で完了してくださったことを忘れるとすれば、まさしく本末転倒です。主が知る必要がないと言われたのですから、私たちに世の終わりの時を具体的に知らされることはありません。人に惑わされないようにするためには、どんな教えであっても、それが人から来ているものか神または聖書から来ているものかをしっかりと見分けなければなりません。

 1992年に韓国のタミ宣教団という団体がその年の10月末に世の終わりが来ると予言して多くの人を惑わしました。結局、何も起こらず、教団は新聞に謝罪記事を載せて解散しました。キリストの再臨がすでに起こったとする主張はエホバの証人をはじめ、繰り返し起きていることです。異端の教えは常に神から直接啓示を受けたと主張した人々によって始まっています。

 最近、私は次のような教えを主張する人々がいると聞きました。その人々の教えは、ノアやアブラハムが神から裁きについて特別な啓示を受けたように、今の時代にも神から特別な奥義を受けた教師がいて、その教師から教えを受けなければ救われないというものです。神が知らせないと言われたことを知っていると主張すること自体が間違っています。しかも、奥義というのは一部の人だけが知りうる神秘的な教えではなく、パウロが意味したのは、神がそれまで人々に隠していたのが遂に時が満ち、キリストによって私たちに知らされた救いの計画に関することです。

 偽の指導者に従うほど危険なことはありません。私たちは主イエスの「人に惑わされないように」という警告に耳を傾け、御言葉をしっかり読み、真の教えかどうか見極めなければなりません。

 二、目を覚ました信仰生活

 主の日は突然来ると主イエスは繰り返し言われました。当時、人々の多くは神のさばきに無関心で、酒に酔ったり快楽にふけったりしていました。パウロはクリスチャンたちに対して「私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう」と命じています(1テサロニケ5:8)。私たちは闇を愛する人々のように無頓着な生き方をせずに、昼間の者として、光にふさわしい聖い生活が求められています。それは暗闇の生活を脱ぎ捨て、イエス・キリストを着ることです。主イエスの品性を身につけ、その聖さを身につけることが必要です。言い換えれば聖霊に満たされた生活です。

 三、約束された希望を告白する

 私たちは救いの福音を聞き、信じたことによって御国を受け継ぐ者になりました。聖霊がそのことを保証しています。私たちには永遠のいのちが与えられ、神とともに生きる御国が待っています。

 信仰生活はよく長距離レースにたとえられますが、長距離レースはゴール直前が一番苦しいものです。選手たちはそんな時、観衆の声援に支えられると言います。私たちも信仰生活のゴール直前にいます。クリスチャンは、神が約束してくださった将来の希望を告白しあって、互いに励ましの言葉をかけ合うことが必要です。

 また、世の終わりは初代教会のクリスチャンたちも待ち望んでいましたが、今日まで延ばされてきました。それは、神がひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるからです。私たちは、自分たちが神の恵みによって受けた救いの喜びと永遠の希望を、闇の中を生きている人々に愛と勇気をもって宣べ伝える使命が与えられています。