特集 三浦綾子 生誕百年 その生涯と作品 死ぬという大切な仕事

『氷点』『塩狩峠』『道ありき』など、数々の名作を世に送り出した作家・三浦綾子。二〇二二年に生誕百年を迎えることを記念して、あらためて今読むべき「三浦綾子」作品の魅力に迫ります。

 

初代秘書  宮嶋裕子

 

晩年の綾子さんは「私には死ぬという大切な仕事が残されている」と言っていたらしいが、私は結婚して旭川を離れていたため、この言葉を聞いてはいなかった。綾子さんが召された一九九九年、その三月に二代目秘書八柳さんが肺がんで召天し、私は三浦家に手伝いに駆けつけ、綾子さんを見送る日々の中で、この言葉を知ることになった。その大切な仕事を終えて、今年は二十四年目。生誕百年の時を迎えた。

綾子さんは一九九〇年、小学館の『本の窓』に一月号から『銃口』の連載を始めた。その翌年夏頃から体調に変調を覚えるようになった。それは難病パーキンソン病の始まりだった。『銃口』の連載は九三年夏まで三十七回にわたる長編であったため、半分以上は難病と闘いながら書いたことになる。『銃口』を書き終えたとき、綾子さんは「書きたいことはたくさんあるけれど、もう書く体がない」と言ったという。

確かに綾子さんは隠れキリシタンのこと等も書きたくて、以前、高野斗志美先生(後に三浦綾子記念文学館初代館長になった方)が九州に行かれたとき、資料収集の依頼をしていたらしい。高野先生は二〇〇二年七月七日に洗礼を受け、その二日後、天に召されたが、先生の書斎には隠れキリシタンの資料がたくさん残されていた。

『銃口』後、小説は書いていないが、角川書店から作家になってからの自伝をぜひ書くようにと熱心に勧められ、一九九五年一月号から『野生時代』に自伝「命ある限り」を書き、続いて『俳句研究』に「明日をうたう―命ある限り」を書いていた。しかし一九九七年三月、高熱を出し連載は中断、一九八四年までの記述で自伝は終わってしまった。この「明日をうたう」のあとがきに光世さんが、連載中断の理由、パーキンソン病の闘病の状況―銃口が向けられている、賊が侵入してきた等の恐ろしい幻覚があったり幻聴があったり、時や場所を選ばぬ不整脈に苦しんだり、夜中に幾度も介護を要する日々であった様子等を書いている。

綾子さんの召天後の十二月二十五日、「生前の多大なるご支援を読者の皆様に感謝申し上げたい」との光世さんの言葉が添えられ、この『明日をうたう―命ある限り』は刊行された。

綾子さんの最後の入院は高熱によるもので、一九九九年七月十四日に始まった。一時期はかなり回復し、退院も検討されていたが、九月五日朝、心肺が停止。痰による気管閉塞が原因と思われる。懸命な応急処置で命は取り留められたが、意識は戻らなかった。病室は、面会謝絶となった。なぜわかったのか、その三日後、ある新聞社が全国紙で「三浦綾子意識不明の重篤」と報じた。私は慌てて三浦家に駆け付けた。お見舞いの電話等で、大混乱になることが想像されたからだった。案の定、報道直後から電話はひっきりなしに続き、案じてくださる手紙も毎日束になって届き、私は対応に追われた。病院の駐車場には、報道陣の車が二十四時間体制で張り付いていた。

病室では光世さんが、「あと一時間かも……」とか、「身内の方に連絡を……」と言われることが幾度もあったが、その都度、綾子さんは持ち直した。医師は、「予測がつかなくなりました。綾子さんの上には何が起こるのかわからない。こんな患者を診るのは初めてです」と感歎して言った。
そんな日々が三十八日続いて、十月十二日、綾子さんはついに召された。亡くなったことはすぐに知られ、遺体が自宅に着く前に、報道陣の車が到着し、家の前ではテレビ局のカメラがまわっていた。光世さんは「それほどまでに報道されることは、ありがたいことと言わねばならなかった」と言っていたが、確かに、ほんとうにそうであったと思う。

光世さんには悲しみに沈んでいる時間はなかった。テレビではニュース速報が流れ、追悼番組も早々に放送された。新聞でも、綾子さんの作品で自死を思いとどまったという人や、励まされたという人々の証言が時には写真入りで掲載されていた。

また、次の日には全国の書店で「追悼 三浦綾子」というコーナーができ、平積みで山ほどの書籍が並んでいたという。テレビや新聞の報道を見て、本を買いに行った人も多かった。この報道によって、新たな読者も生まれ、教会に行くようになった人、クリスチャンになった人も大勢いる。

綾子さんは、「書く体がない」と感じ始めてから、「死ぬという大切な仕事を用いてください。大切な仕事を全うできますように」と祈り続けていたのではないだろうか。その祈りの答えが、意識不明の三十八日間ではなかったかと、私はたびたび思うのだ。

「重篤」と報道されて以来、三浦家の居間で私は「今から教会で祈り会を始めます。現在の具合いはいかがですか」「韓国から祈っています」等々、電話や手紙によって祈っていてくださる多くの方々の存在を知らされた。

また、あれほどの充実した追悼番組や記事のためには報道各社が懇ろな取材、準備をなさったのではないか……。出版社は再版をし、書店は仕入れ……充分な備えがなされ、まるでそれを見届けたかのように綾子さんは召されたと考えるのは、不謹慎だろうか。

綾子さんは、作家デビューするきっかけになった朝日新聞が募集した懸賞小説に応募するとき、「神様の愛を伝えられる作品を書かせてください」と祈り、さらに「御心にかなわないなら入選させないでください」とも祈った。雑貨店を営みながら閉店後片づけをし、二十二時を過ぎて、毎晩コツコツと一年書き続けた作品を「入選させないでください」とまで祈った綾子さん。それゆえに「入選したからには、神様が責任をとってくださる。人にはできないことも神にはできる。これが今日に至るまでの私の信仰である」との言葉も書き残している。

文学史に残るより「誰かを救うことのできる作品を」と願い、「漠然と大衆を相手にするというのではなく、誰か一人でもよい、その胸に響く作品に」と願っていた綾子さん。その作品は今も人々を慰め励まし、生きる勇気と希望を与え続けている。

綾子さんが召された後、夫・光世さんへの執筆依頼も多く、光世さんの本は十冊以上になった。講演のお招きで九州は全県に伺っており、国内のみならず、韓国・台湾・アメリカは十都市、一年に百回にも及ぶ講演をしている。総回数、千カ所以上に及ぶ、八十歳前後のことであった。体の弱い光世さんがただの一度も寝込むことはなかった。行く先々で人は溢れ、本は飛ぶように売れた。
現在、全国約二百カ所で「三浦綾子読書会」も開かれていて、今も綾子さんの言葉は人々を励まし、生きて働き続けている。

「彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている。」(ヘブル一一・四)