福祉と福音
―弱さの福祉哲学 第6回 支援のタイミング「そったくどうじ」

木原活信
同志社大学社会学部教授

小さい頃からファーブルの世界に憧れ、今でも無類の生物好きであるが、虫とりに明け暮れていた少年時代のぼくの心にどうしても忘れ得ぬ傷がある。
小学一年生の頃、山林で友達とカブト虫の幼虫を採ってきて、大切に育てていた。それが段々と大きくなり、いよいよ幼虫から蛹になり、そして脱皮して成虫のカブト虫へとなる時がきた。少年は胸を膨らませた。蛹の表面が濃い茶色になり、時々かすかに動いている。その感動の瞬間がもうそこまでやってきた。蛹の中をのぞくと、オスのカブト虫の姿がうっすらと見えている。脱皮してカブトの雄姿が現れる待望の瞬間を、今か今かと見つめていた。
ところがである。いよいよ蛹が脱皮して外側の皮を剥がして出てこようとしていたのであるが、少年にはそれが、どうも苦しそうで、今にも死にそうで、もがいているように思えた。しばらくは、必死で祈るような思いで見守っていたのであるが、小さなこのいのちが自分に助けを求めているように思えてきたのである。
そしてついに少年は、見るに見かねて良かれと思って、もがいている小さないのちの外側の皮を震えるような手で剥いで、「助けて」やったのである。一瞬うまくいったように思えた。動きがとまって、成虫カブトが確かに出てきた。手で触った感触がなんか柔らかいような感じであった。悲劇は始まっていた。手が触ってしまった雄の角は曲がってしまい、飛べるはずの羽はひん曲がってしまっていた。しばらくしても、元には戻らなかった。
翌日、同じ時に幼虫を採った友達が、興奮気味に、カブト虫を自慢げに見せに来た。しかし、少年は恥ずかしくて自分のカブトを見せることができなかった。木の上で、互いのカブトで決闘をさせる約束までしていたのに。
せっかくの大好きなカブト虫をこんなことにしてしまった自責の念と悔しさと、痛々しそうなカブト虫を見て、本当につらかった。そしてその翌朝、この無垢な少年の必死の願いとは裏腹に、もうカブトは動いていなかった。わずかな地上のいのちだった。「ぼくがあのとき触らなければ……」と、自責の念と大切な友達を失くしてしまったような感傷に浸り、一人泣いたことを覚えている。

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さてこの体験は、その後、社会福祉を学び、ソーシャルワーカーやカウンセラーなどの仕事をし、それを研究・教育する立場になって、生きた福祉哲学となって活かされることになった。それは支援のタイミングの重要さである。
困っている人がいれば、すぐにでも助けてやりたい、こう思うのは、福祉専門家でなくてもだれにも共通のものであろう。しかしそのタイミングをちょっとでも間違えると、相手は依存的になり過ぎたり、自分で立ちあがろうとしているのに結果的にいつまでもそれをできなくさせてしまう危険性がある。
イエスがラザロが死にかけているという連絡を受けたのにもかかわらず、マルタ、マリヤ、ラザロを愛しているがゆえに、あえて二日間、到着するタイミングを遅らせた(ヨハネ11章)。これは、一見するとひどいことのように思えるのだが、しかし、そのことを通じて彼らが得られるであろう「神の栄光」の体験を考えると、文字通りイエスは「愛ゆえに」待たれたのである。
「?啄同時(そったくどうじ)」という難しい四字熟語がある。雛が卵からかえるときに、内側から雛が自ら出てこようとしているちょうどその同じタイミングで親鳥は、外から殻を突いて「助けて」あげる行為のことで、この両者のタイミングが同時であることをいう。自然界では、このタイミングが絶妙で、早過ぎると早産で死んでしまうし、逆に遅過ぎると力尽きて外に出てこられないことがある。そこには両者の絶妙なタイミングというものがあって、それが見事に一致するというのである。
ところが人間同士の支援という場合、多くの場合、このタイミングを失して、少年の頃のあの苦い経験のように、自分でせっかく出ようとしているのに、余計なお節介をしてしまっていることが多い。その逆もある。
社会福祉の援助では、本当のプロの援助者というのは、支援の方法が優れていることもさることながら、この絶妙な「そったくどうじ」のタイミングを心得ている人のことであろう。確かに、ベテランのソーシャルワーカーの支援のタイミングは、芸術的なまでに利用者の必要に応じて良きタイミングである。こうして、利用者は真に自立することができる。これは子育てにも、教育にも、牧会にもあてはまることであろう。