新約聖書よもやま裏話 特別編 「ユダの福音書」って何?(2)

マルキオンの正典

 異端の脅威としてはマルキオンという人物を忘れてはならない。マルキオンはユダヤ教的な要素を否定する立場を表明した異端者で、自分の主張を「マルキオンの正典」という形で公にした。

 旧約聖書の聖書としての権威を否定し、新約聖書二十七巻の中でも旧約聖書的、ユダヤ教的色彩が強いものを排除しようとした。福音書の中では、マルキオンはマタイ福音書をユダヤ的であり旧約聖書的だということで排除した。福音書の中でマルキオンが好んだのはルカ福音書であるが、その中でも、一、二章はユダヤ的であるとして削除した。マルキオンの考える「キリスト教」とは、パウロ的なものを極端にしたものであった。そのような基準で、「マルキオンの正典」は作成された。

 当然のこと、主流のキリスト教会には、マルキオンの異端に対抗する必要が生じ、正統的キリスト教会が正典について考えざるをえなくなった。主流でない異端の教えが流布しなければ、正典を明確にする必要もなかったかもしれない。

 二世紀にはすでに正典の核となる書物についてほぼ合意に達していたが、四世紀の末にならないと新約聖書正典二十七巻は確立しなかった。

 聖書の各巻は、書きとめられた時点ですでに神のみことばであったが、聖書は神のみことばであり教会の教えと実践の基準となるべき重要な文書であると全教会レベルで合意するには、それなりの時間を要した。

「ユダの福音書」の意味

 ところで、「ユダの福音書」に紹介されるような「ユダ」像には、どういう意味があるのか。それは、キリスト教会の正統的立場から描き出されたユダ像に対抗するアンチテーゼ、チャレンジにほかならない。

 「ユダの福音書」は、イエスは、ただひとりイスカリオテのユダにだけ真理を明かし、そして、圧倒的に数でまさったほかの弟子たちがその「真理」を抹消したと、伝える。

 何事でも、新しい視点から見直す、新しい光に照らして新たな意義を探ることに、やぶさかでない。しかし、このような論理展開は、詐欺の常套手段である(失礼!)。

 秘密結社シオン修道会だけが真実を知っていた、正しかった、というあの『ダ・ヴィンチ・コード』と同じ手口である。ユダだけは知っていた。とすると、ほかはみな断罪され、否定される。歴史の表舞台から抹殺される。

「負け組」視点からの再評価

 まさに、ポストモダンの世界である。権威に反抗し、多様性を主張する価値多元主義的観点である。主流・正統でない亜流・異端の見解を再評価しようというのである。従来、歴史とは「勝ち組」の視点から書き残されたが、昨今は「負け組」の視点から歴史が再評価される傾向が強い。

 ある意味、「ユダの福音書」では、裏切った側の論理が展開されている。たしかに正典の福音書には裏切らざるを得なかったユダの心理、論理は詳述されていない。そういう意味で、「ユダの福音書」は、ユダの弁明の書でもある。

 やっぱり正典福音書こそが福音書であり、外典福音書でしかない「ユダの福音書」には勝ち目はない。独断と偏見だ、とおしかりを賜るかもしれないがこれが私の正直な感想だ。この原稿で多少なりとも雑誌代の元手はとれたかな。