342 時代を見る眼 今、カルトを問い直す〔3〕「教会のカルト化」を生み出す種

日本基督教団仙台宮城野教会 牧師
齋藤 篤

旧・統一協会問題がきっかけとなり、カルト問題というものが人々のあいだで注目されるようになった今、私たち教会はどのような態度をもって、カルトなるものに向き合うことができるだろうか。そんなことを考えるときに、既存の、伝統的かつ正統的な教会だからカルトではないと、カルトを自分とは真逆にある敵のようにみなすことで、「自分にはまったく関係のない話」と断定するのではなく、「自分に与えられた大切な課題」として考えていきたいのです。
「教会のカルト化」という言葉が登場して久しくなりました。指導、信仰教育と称して、結局のところは牧師の支配欲求を満たすために神の言葉を利用して、教会組織を利用して信徒を服従させることで、さまざまな弊害を生んでいる現実があります。
そして、教会のカルト化は、何も牧師だけの話ではありません。信徒のあいだにも、見えるかたちでの上下関係が生まれれば、ゆがんだ支配構造ができてしまいかねません。教会内でのトラブルの多くは、そのようなところから起きるのであって、それは私たち人間の罪深さゆえのことなのです。
人間の罪深さとは、神と人間とのあいだにある良質な支配=被支配関係を、人間のあいだで実現させようとする欲求から生まれます。神を必要としないところには、自分自身が神となろうとする態度が芽生えます。
そういう意味で言えば、私たちは誰でも「カルト化の種」を持ち、それを芽生えさせるための要素をいくらでも持っているのです。そのことを十分に自覚するところにこそ、私たち教会がカルト化しないための基本があるのだと感じずにはいられません。
私たちが神の良きご支配をいただいて、それを自分たちの生き方とするために、神の言葉が指し示すイエス・キリストの生き方に耳と心を傾ける営みを大切にしたいのです。
イエスは言われます。
「わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい」(マタイの福音書28章20節)。
ここで言う「わたしがあなたがたに命じておいた」こととは何かを、イエスの言葉と行いから真摯に探り、受け入れることが、カルトから解放されて神とともに喜ぶことのできる人生の道なのだと思います。そんなことを心から望みたいのです。