文学ジャンル別聖書の読み方ガイド 第3回 なぜ、聖書解釈なのか(下)

関野祐二
聖契神学校校長

● 今ここで(解釈)
○ そのときそこで→ 今ここで

 聖書のある箇所を読む読み方(広義の「解釈」interpretation)の基本、その第一ステップは「そのときそこで(どう語られたのか)」という、原著者の意図を汲み取る「釈義」(exegesis)でした。続く第二ステップは「今ここで(どう読むのか)」をつかむ「解釈」(狭義hermeneutics)です。たいせつなのは、これが「そのときそこで」(釈義)に続く第二ステップの作業ゆえ、聖書を読む際、いきなりこの「解釈」から始めないようにすること。聖霊によって霊感された記者が、誤りなく神のことばを書き記した聖書なのだから、読者の私がよく祈り、同じ聖霊に導かれて読むなら、今ここで私にも真理がわかるはず? 確かにそうです。「今日の私にこのみことばは何を語るのか、どのみことばが今の私に与えられているのか」、それを求め、探し当てようとのはやる気持ちもわかります。魂は渇いているし、時間もないし、即効性のみことばが今ほしい! でも、そこはぐっとこらえてステップを踏みましょう。正しい解釈は、確かな釈義から(のみ)始まるのですから。

○ 志を立てさせ、事を行わせる?

 新しい働きに就くときや、主のみこころを求めて確信が与えられた際の人気聖句ナンバーワンはこれ。「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです」(ピリピ二・一三)。主が私の心に「……したい」との志を与えてくださるのだから、今私の内にある熱きこの思いは主のみこころにかなっている、というわけです。

 しかしパウロが語る「そのときそこで」は、ピリピ教会員の一致を求めるパウロがキリストの謙卑という模範を提示した後、彼らに「自分の救いの達成」、つまり「きよめの成長」を求める文脈。ですからここでいう「志」とは、「もっときよめられ、主イエスに似る者へと成長したい」との思いであって、一般的なビジョンとは別なのです。「そのときそこで」の釈義をスキップし、字面だけ都合のいい聖句を拾っていきなり「今ここで」の解釈から入るとどうなるか、その典型例ですね。

○ 元々の意味に戻る

 結局のところ、解釈の振れ幅を正しく抑制する統率力は、聖書の元々の意味に戻るところから与えられます。つまり、「そのときそこで」を常に意識し、それをはずれた「今ここで」に暴走しないよう留意することこそたいせつなのです。それでは聖霊による自由な解釈が妨げられ、思いのまま吹く風のような御霊の働きが縛られる? いいえ、聖霊の助けは、聖書の元々の意図を発見し、その意味を我々の状況へと適用させるための努力へと我々を導く、まさにそのただ中に見いだされるのです。

○ 意味しなかったことは意味し得ず

 聖書は、読んでわかる意味の奥に、より深い第二の意味を含んでいるのでしょうか。それが「比喩的解釈」とか「霊的解釈」などともてはやされた長い歴史も今は昔。聖書は、それが意味しなかったことを意味し得ない、これが解釈の大原則です。意味し得ない解釈を聖書に押しつけたところから、諸々のカルトや異端が生まれました。だからこそ、「それが意味することを読み取る」解釈の手法を学ぶ必要があるのですね。たやすくはありませんが、聖霊に依り頼みつつ「読み方」を学習するのは喜びです。

● それでは どのように(適用)

 「そのときそこで」を状況再現し、「今ここで」読む私の状況に当てはめることができるのなら、「それではどのように」みことばを実行するか、いよいよ適用へと進みます。主は今の私に必要なみことばを、作為なき通読の中で与えてくださるとの信頼、さらに元々の意味こそが正しい解釈の抑制原理、という健全なバランス感覚が求められるでしょう。かつて筆者が献身の道を閉ざされ、プチ家出をして帰宅した朝、めぐってきた通読の箇所は、エレミヤ四・一―四でした。偶像礼拝に走った背信のイスラエルと、献身を社会逃避の隠れ蓑にした自らの姿勢が重なり、「忌むべき物をわたしの前から除くなら、あなたは迷うことはない」「耕地を開拓せよ。いばらの中に種を蒔くな」「主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け」とのみことばがダイレクトに迫って全面降伏。生涯忘れ得ぬ「適用体験」です。いつもそうとはいかなくても、信頼して日々待ち望めば、「それではどのように実行するのか」と促されるみことばにきっと出会えます。だから、毎日の淡々とした聖書通読は欠かせません。

 準備はこのくらいにして、次回よりいよいよ、文学ジャンル別解釈法を学びます。