ビデオ 試写室◆ ビデオ評 85 「クオ・ヴァディス」(2)

「クオ・ヴァディス」
古川第一郎
日本キリスト改革派 南越谷コイノニア教会牧師

ネロの悲しい最期と私たち

 先月に続いて「クオ・ヴァディス」第二回目として、心に感じたことを書きます。

 後半のクライマックス、競技場の中で逃げ惑うクリスチャンたちをライオンが喰いちぎっていくシーンは、思わず震えます。もっと怖いのは、それを見ている聴衆の笑いです。これこそまさに「堕落」です。

 忠実なクリスチャンのグラウコスが、火あぶりにされながら、密告したキロンを赦して死んでいきます。ずるいキロンが心から回心し、パウロから洗礼を受け、殺す側から殺される側へと移っていきます。マルクスはリギアを助けるために、皇帝ネロに立ち向かいます。

 ところが、肝心のネロは、ただの「臆病で気の弱い男」として描かれます。側近の言葉に振り回されてローマに火をつけ、クリスチャンを虐殺し、そして側近に裏切られて失脚していく、実にかわいそうな男です。同情さえ感じます。そのため、「憎むべき暴君」というイメージが乏しく、迫力が全然ありません。しかし、ネロを典型的な「悪役」に誇張するよりも、この方が別の意味で怖いです。とくに「自分の中にいるネロ」に気づかせられる点で、実に怖いです。これが、ハリウッド映画と違うところでしょう。

 嘆き苦しみながらも、クリスチャンたちは信仰を守り通して死んでいきました。その姿を見て、今の教会のことを考えました。迫害が怖くて、あの残酷な侵略戦争に協力してしまったのが、日本の教会でした。今再び、信教の自由の圧迫が始まっています。「君が代」が強制され、歌わない人が処罰されています。現代のネロがもう現れているかもしれないのです。

 「信仰を取るか、死を取るか」というような状況で、今のクリスチャンたちは勝利できるでしょうか?しかし今は、私たちが為政者を選ぶ特権を持っています。大迫害の悲劇が起こる前に、この特権を駆使して、信仰の自由を死守し、子供や後輩たちに遺してあげなければならないと、切に思いました。

 ライオンと戦わされても、キリスト者としての告白を貫いた人たち。人のどんな悪意にも引き下げられない強さをそこに見ます。人に笑われること、拒絶されることが怖くて証しができない私たちに、熱い風を吹き込んでくれる、約4時間半、総製作費170億円の歴史大作です。

 『クオ・ヴァディス』を観た私たちは、どう生きるのでしょうか?