バック・トゥ・ベーシック・シリーズ(2) 礼拝 神の語りかけと人間の応答

礼拝
山口 昇
アレセイヤ研究所 所長

 一、礼拝とは何か

 私たちはクリスチャンとして、毎週日曜日に礼拝をしていますが、なぜ礼拝をするのでしょうか。このように改めて質問されると、けっこう困るものです。まさか「習慣ですから」とか「初代教会の時代からそうしてきたのですから」と答えるわけにもいきません。

 そこでまず「礼拝とは何か」について、聖書は何と教えているか、聖書を見てみましょう。皆さんも創世記一二章七節を開いてみてください。「そのころ、主がアブラムに現われ、そして『あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。』と仰せられた。アブラムは自分に現われてくださった主のために、そこに祭壇を築いた」と書いてあります。アブラハムは神がご自身を現わして、彼に主の恵みの約束について語りかけられた時、彼は感謝の応答として祭壇を築いて神を礼拝したのです。ここから私たちは「礼拝とは何か」について学ぶことができます。

 礼拝とは、神がご自身を現わされて人間に語りかけられたことに対する、人間の側の信仰による感謝の応答です。したがって礼拝の本質とは、神の「自己啓示」に対する人間の「信仰による応答」であると言うことができます。

 これを今日の私たちの礼拝に当てはめて言うなら、「神の自己啓示」は聖書のみことばを通して神が私たちに語られることであり、聖書朗読やみことばの解き明かしなどが、これに相当します。「信仰による応答」は私たちがキリストを信じる信仰により、神の語りかけに感謝をもって応答することで、賛美、祈り、信仰告白、自分自身を神に献げることの現われとしての献金などに相当します。私たちの礼拝にはこの両方の要素が必要です。

 二、礼拝の必要性

 私たちは、毎日忙しく過ごしているのに、なぜ日曜日に礼拝をしなければならないのでしょうか。

 すでに述べたように、礼拝は神の語りかけと人間の応答です。神は人間に語りかけて、人間の応答を求めておられるのです。これは人間の世界でも同じではないでしょうか。父親が子どもに語りかけたら、子どもがそれに答えるのは当然ではないでしょうか。つまり、神は礼拝者を求めておられるのです。(ヨハネ四・二三)私たちの礼拝は、この神の求めに対する答えでなければなりません。礼拝はクリスチャンのなすべきことです。

 また父なる神は安息日の律法を定められましたが、それは単に私たちが仕事を休むためだけではなく、日常の雑事から解放されて、神の御前に出て神の御声を聞き、それに応答し、神との霊の交わりをして霊の安息を得るためです。礼拝は私たちの霊的安息のためにも大切なものです。礼拝を怠るクリスチャンは、霊的力を失います。

 三、礼拝の態度

 イエス・キリストは「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません」と言われました。(ヨハネ四・二四)これは霊的で真実な態度で礼拝しなければならないということでしょうが、詩篇一〇〇篇にはもっと具体的に礼拝の態度が示されています。

 第一は喜びです。(一、二節)詩篇の作者は「全地」に「喜び歌いつつ御前に来たれ」と呼びかけています。私たちはキリストを信じるなら、彼の贖いのゆえに、はばからずして神の御前に出ることができるのです。(ヘブル一〇・二二)この特権を与えられたことを思い、喜んで神の御前に行くべきです。主は私たちが礼拝に来るように呼びかけ、招いてくださるというのは、私たちクリスチャンに与えられた特権です。

 第二は、神を知ることです。(三節)「知れ。主こそ神」とあります。聖書朗読や説教は神がどんな方かを知るためにあるのですから、しっかり聞き、学ぶべきです。「主」が太い字で書いているのは、聖書の唯一の神を示す語だからです。ここでは主は「唯一の神」(知れ。主こそ神)、「創造者なる神」(主が、私たちを造られた)、「救い主なる神」(私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である)であることが教えられています。

 第三は感謝と賛美です。(四、五節)詩篇の作者は主のいつくしみの深さ、恵みが永遠に続くこと、真実が代々に至ることのゆえに、感謝と賛美を主にささげています。

 私たちも礼拝を通して主のいつくしみ、恵み、真実を思い、主に感謝と賛美をささげましょう。