クリスチャンは戦争をしてもよいか? 1 ブッシュ大統領の論理

兵士
藤原 淳賀
東京基督教大学専任講師

 

日本人にも迫る危機感

ここにきてイラクへの開戦はかなりの現実味を帯びてきた。本誌が読者の手に届く頃には、戦争は始まっているだろう。戦後の日本は、日米安全保障条約によってアメリカの軍事的保護下にあり、戦争というものは自分たちにはあまり関係ないものという雰囲気があった。しかし北朝鮮によって日本が直接攻撃を受ける可能性がある今日、以前にも増して戦争問題は緊迫感を持って日本人に迫っている。

「キリスト教国」?

米国はキリスト教国なのになぜ戦争をするのか? 私が牧会する教会の学生たちが、キリスト者として戦争について聞いてきた。

キリスト教国とは何か? キリスト教国を支えるキリスト教とはどのようなものか? そしてクリスチャンの社会倫理とは何か? (ブッシュ大統領はメソジストのクリスチャンということである。ここではブッシュ大統領を「開戦を決意している合衆国の大統領」の意で用いている。)

四世紀以降キリスト教は、多くの国々で国教となり、ヨーロッパは長い間いわゆるキリスト教世界を形成してきた。米国には国教はないが、キリスト教がその精神的基盤となっている。

すでに「キリスト教世界」は世俗化と共に崩壊しつつあるが、(今回好戦的立場を取っている)米国や英国はいまだキリスト教国と呼ばれることがある。筆者は米国と英国にそれぞれ四年から五年留学していたが、このような「キリスト教国」においては文化のさまざまな側面に「キリスト教的」香りがある。

「キリスト教国」において教会は、またキリスト教信仰は、どのような役割を果たすのか? 郵政省が国家の通信部門を担うように、教会は国家の道徳・宗教部門を担うよう期待されていた。つまり国家の指導者が求める国益に仕えるのが、教会のまたキリスト教の役割と考えられていた。そのような教会が預言者的声を上げて国家の悪を指摘することは難しい。むしろ祭司的に神にとりなし、国家の決断に神の祝福を求める。キリスト教国におけるキリスト教は、重要な局面で神よりも国益に仕えてしまう。「キリスト教国」が新約聖書に記されている生き方をしていないことを不思議に思ってはならない。「キリスト教国」とはその程度のものなのである。
戦闘機

米国のプライド

ブッシュ大統領は(公平なる?)超大国の指導者として、イラクと北朝鮮を悪の枢軸国と糾弾した。更に三月七日のCNNによると彼はイラクに対して「自ら武装解除しないというのなら、我々が武装解除させる」と語っている。実はこれが問題の本質を表している。

ここにある論理は何か? それは「我々が、何が善で何が国際社会で受け入れられるものであるかを決める。世界各国は我々が願うことを行って欲しい。どうしても我々の指導に従えないのなら、残念ながら力で分からせるしかない」というものである。若き超大国の傲慢ともいえるプライドが見える。

同時にこれはキリスト教現実主義の伝統に立った選択でもある。この堕落した世界において「アガペー(愛)」を持って対処することは不可能であるので、現実的にクリスチャンもノンクリスチャンも同意できるような「正義」を求めていくべきであるという立場である。様々な価値観や背景の人々からなる国家が、「キリスト教的」決断をするとき、聖書に従う決断というよりも、現実的、常識的決断とならざるを得ない。

「罪のないイラク国民の命は守る」「イラク国民自身の意思」を尊重する(同CNN)などと多少キリスト教的人権尊重の香りはあるが、聖書に記されたイエス様の教えにとことん従おうという意思など初めからない。力とプライドを持った若き超大国のリーダーが、キリスト教現実主義の伝統に立って自分たちが悪と考えることを自分たちの力で取り除こうとしているのである。これが大統領が開戦を求める大儀名文である。石油その他の国益問題以外にも、そこには歴史を正しい方向に導くのがアメリカの責任であるという考え方がある。

イエスの倫理は何か

それに対して、イエス様が生きられ、教えられた倫理は何か? それは神への驚くべき信頼に基づく非暴力的倫理である。それは神の国の倫理といってもよい。歴史を握っておられるのは神であるということを信じ、十字架で殺されるまで神に従いつくされた。このような選択は真剣なる信仰を持ったキリスト者以外には不可能である。しかもそこには十字架を受け取る覚悟が求められる。国家の政策にはなり得ない。国教ではなく、回心を経験した者からなる教会(believers’ church)のみが選び取ることのできる倫理である。

クリスチャンは戦争をしてもよいか?
クリスチャンは戦争をしてもよいか?

クリスチャンは戦争をしてもよいか? 2 「平和ボケ」した平和主義ではなく