「がんばる人生」から「ありのままの人生」へ 東後勝明氏インタビュー(3)

良いことも悪いことも主にあって受け入れる

 東後氏は、いま多くの病を抱えている。狭心症、前立腺ガン(治療後の経過観察)、糖尿病予備軍、腹腔内出血は常に再発の危機もある。青年時代に重くのしかかった死への恐怖はどうなったのだろうか。

 「もう大分なくなりましたね。いまは何が起きても大丈夫という感覚が自分のなかに芽生えてきた。それは主とともにあるという信仰が自分のなかに息づいてきたからだと思います。

 かつては病気が悪で、健康が善と考えていましたが、いまは良いことも悪いことも主にあって受け入れる。聖書にあるように悲しみのなかで喜び、貧しいようで多くの人を富ませ、何もないようですべてのものを持っている。最後は、そういう境地が与えられるのではないかと期待しています」。

 家族やご自身に起こった一連の“不幸”な出来事が、祝福の出発点だったことを思うとき、東後氏のことばは力を帯びて響いてくる。

みことばに根ざした日常生活を実践するために

 二月に発行された『ありのままを生きる』の第二部は、日常生活の様々なシーンのなかで、聖書的に生きるとはどんなことかについて考えたコラムだ。

 たとえば「通勤ラッシュで学んだこと」では、電車に乗り込むとき、脇をすり抜けた人に座られてしまう場面がきっかけとなる。このようにマナーのよくない人を心のなかで責めた後で、クリスチャンなら譲ってもいいではないかと自己嫌悪する。釈然としない思いのなかで、東後氏は祈り、自分を検証する。すると示されたのは「自分の目の梁」だった。心にある、座りたいという気持ちを神様にゆだねると、以降はすり抜けられても気にならなくなった。

 「できないことも多いのですが、実生活のなかで信仰に則して歩みたいと思っています。日本でクリスチャンがどうして増えないのか、なぜクリスチャニティ(聖書的精神)が広まらないのか。やはりクリスチャンの信仰そのもの、みことばそのものが日常生活に生かされていないからではないか。

 大切なのは、すべての出来事を信仰的に受け止めていくこと。たとえ急を要するようなことでも、具体的な対応をしながらも祈る。例えば火事が起きたら、祈りつつ消火する。鎮火したら、その火事をどう受け止めるのかを祈りの中で問う。好ましくないと思われることにも宝が隠されていると受け止めて、次の歩みに生かして行く」。

 この本は、まだ聖書を知らない人向けに書かれているが、実はクリスチャンが忘れがちなことを気づかせてもくれる。主な読者となるクリスチャンでない方に向けて東後氏はこう話す。

 「多くの方々は目に見えないものを信じるということは不安定で、曖昧で、頼りないものと考えておられるけれど、この本を通して今一度、信じる世界とはどういうものなのかを見つめ直していただけたらと思います」