祈り祈られマリエリ交換日記 第1回 思いを受け止められる経験を経て
神山美由記 嘉手納アッセンブリー教会 副牧師
裕香さんへ
私にとっての裕香さんは一言で言うと、「信仰のお姉さん(霊のお姉さん)」です。
これまでも教会内外に神の家族がたくさん与えられてきました。信仰の先輩と慕うようなお母さんやお父さん、頼れる兄やかわいい弟、妹のような存在もいます。そういったなかで、裕香さんは所属する教団も別で、年齢も一回り離れていて、牧会経験も豊富で、側から見ると大先輩。
でも裕香さんは、不思議と先輩風を吹かすような感じはまったくなく、ベンチに並んで話を聞いて祈ってくれる、親戚のお姉さんのような存在です。
実際に女子会が終わった後、夜の公園のベンチに座りこんで、ふたりでお祈りしたこともありましたよね。あの時も裕香さんはじっと私の顔を見つめながら、「うん、うん」とうなずき、静かに私の思いに寄り添って、とりなして祈ってくれました。
そして、もう一つ特筆すべきこと、それは、裕香さんは「祈りの人」だということです。
裕香さんと出会った頃の私は独身で、女性牧師として、いろいろと葛藤していました。ある方の言葉(批判的な内容)が自分の中でトラウマになって、講壇に立つのが億劫になった時期もあります。ちょうどその時期に、薬を服用しなければ眠れなくもなりました。
そういう私に裕香さんは何も(だれも)ジャッジせず、「美由記ちゃん、ご奉仕が守られるように祈っているからね。批判する(責める)人のそばにはイエスさまはいないから。批判されている(責められている)側の人のそばにいてくださるよ。だから大丈夫」と言ってくれました。あの時は本当に励まされましたよ。
頻繁に会うわけではないけれど、つねに祈られているという安心感を得ながら、必要な時に的確なアドバイスを受け、またいざとなれば顔を見て話したくなる存在。それはまさしくマリアとエリサベツのような関係に近いなぁと感じます。
ヨセフとの婚約中に突然の受胎告知を受けたマリアの心情を想像すると、どれだけ困惑しただろうかと思います。しかし、彼女にとって「見なさい」(ルカ一・三六)と御使いから語られたエリサベツの存在は、とても心強く、頼もしい存在だったのではないかと。
エリサベツが住んでいた「山地にあるユダの町」はナザレからは直線距離で一六〇キロと言われており、女性の足でも四、五日はかかるそうです。現代ほどの便利な交通手段がないこの時代に、妊娠初期のマリアがそこまで会いに出かけた理由は「思いの共有」であったと思います。
エリサベツに会って、自分が選んだその道は間違ってないと背中を押してほしい―そんな心境だったでしょう。そして彼女の元へ行き、挨拶を交わす中で「あなたは女の中で最も祝福された方。あなたの胎の身も祝福されています」(ルカ一・四二)という、エリサベツからの温かい励ましの言葉に、マリアの心はどれほど平安に満たされたことでしょう。
私にとっての裕香さんは、エリサベツのように思いを受け止め、次に進む力を主から得るために背中を押してくれる存在です。
もしかすると、この読者の中には「だれかの助けを得なくても、自分一人で主から力を得て信仰生活を維持していくことができる」という方もいらっしゃるかもしれません。しかし、神の家族に思いを受け止めてもらうという日常の経験が、父なる神様もより一層私たちに関心をもち、思い(祈り)を受け止め、みこころへと導かれるのだという確信へと続く祈りの旅路の一つなのです。
だからこそ、ドリンクバーだけでファミレスに何時間も滞在できるほど、語ることは尽きないのです。特に女性にとっては思いを共有し、共感し合うことが大切な時間ですからね。
それにしても、裕香さんのその並外れた面倒見の良さはどこから培われたものなのでしょう。
これまでの信仰生活のことなど、もう少し掘り下げて聞かせていただけませんか?