連載 神への賛美 第10回 ヨハネの福音書と賛美(4)
向日かおり むかひ・かおり
ピュアな歌声を持つゴスペルシンガー。代々のクリスチャンホームに育つ。大阪教育大学声楽科卒業、同校専攻科修了。クラシックからポップス、ゴスペルまで、幅の広いレパートリーを持ち、国内外で賛美活動を展開している。
わあ! ぶどうの木だ! それも光り輝く……。なんて美しい……。
そう感動したことが、私にはしばしばあります。礼拝の、特に賛美の中でです。そこにいるひとりひとりが、ぶどうの枝。ぶどうの木はイエスさま。上がる賛美の声、天を仰ぐみんなの姿。イエス様を真ん中に、みんなで一つ。なんて壮大で美しいのだろう! そこに訪れる平和。賛美の中に見る、大きな喜びの瞬間でもあります。
「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です」とイエスさまはおっしゃいました。「人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」(ヨハネ15・5)
枝は木にとどまる。つながっているだけで素晴らしいものをいただけます。特に水。前回お伝えした、いのちの水に重なります。花瓶の花も水を吸うことができますが、すぐに枯れてしまいます。でも木に、イエス様につながっていると、その霊、いのちの水が絶えず流れこみ、私たちは生かされるのです。
「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。」(同15・9)
愛にとどまる。神様の本質である愛に。でも残念ながら私たちは忙しく駆け回り、愛を置き去りにする面をもっています。回らない、進まない、仕方がない、と。そして礼拝の朝になって、まるでハリボテのような愛をおずおずと掲げてみる。でも、魂は言うのです。何かが違うと。
主の愛はいつも、片時も離れることはない。だから私たちも、どの瞬間も、主の愛にとどまることを覚え続ける。その時、私たちの日常が、礼拝へと変えられていくのではないでしょうか。私たちの唇へのぼる日々の言葉が、神への賛美と変えられていく。
「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(同15・13)
愛の真髄を、主は示してくださいました。しかし、愛することに努めようとした人は、しばしば大きな挫折を味わいます。自分の中には愛などない。いや、実は、自分で自分を愛することすらできないではないか。けれどまことのぶどうの木からは、「主がご自分を捨てるほどの愛」が一方的に流れ込んでくる。この愛は希望です。
「父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。」(同17・21)
「一つ」になること。それは人類の見果てぬ夢のように思います。その平和にあずかりたいと切望します。それは真実の愛でしか実現できないと、魂は知っています。
しかし、だからこそ、愛に行き詰まる私たちは、最高のお手本に目を留めるのです。「父と私は一つ」という主のこころに。イエスさまは、お父さまのみこころしか行わなかった。自分の思いではなく。それはどんな心……。
愛に挫折する時は多々あります。傷つき、失敗もする。でも信頼することができます。あの人も木につながっている。私も木につながっている。人間の領域ではわかり合えなくても、イエスさまを真ん中に、もう私たちは「一つ」だと。
ある友人が言ってくれました。「私たちは『一つ』になるのではない。すでにある『一つ』に仕えるだけだ」と。
「また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。」(同17・23)
私たちが「一つ」であることで、世界がイエスさまを知ってくれる。私たちが神様に愛されていることを、私たちの友達が知ってくれる。木とつながっていることで実る豊かな実。「一つ」である喜びは、どんな困難も越えさせてくれるように思います。
「わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。」(同15・11)
そうです! 喜び! この喜びが、さらなる賛美の泉です! 主よ、あなたはなんと素晴らしい! 愛で私たちは「一つ」。世界は大きな「一つ」のぶどうの木。こんな平和を与えてくださった、あなたは何と素晴らしい神様! あなたは愛です。賛美、賛美、神への賛美!
この喜びの泉は、尽きることがありません。