新連載 祈られて、がんと生きる ボクと牧師の24の往復書簡 第四回 男泣き
大嶋重德
1997年からキリスト者学生会(KGK)主事となり、学生伝道に携わる。KGK総主事を経て、現在、鳩ヶ谷福音自由教会牧師。太平洋放送協会(PBA)ラジオ「世の光」メッセンジャー。
峰岸大介
鳩ケ谷福音自由教会教会員。2013年から胸腺がんを患う。東日本旅客鉄道株式会社勤務。
妻と3人の娘の5人家族。
大嶋先生へ
私が大嶋先生に電話で「訪問したい」と話すと、大嶋先生は「どうぞいつでも来てください。大介さん、うれしいですよ」と歓迎してくれました。
娘たちが同世代で家族ぐるみのお付き合いをさせてもらっていましたが、実際は教会学校(日曜学校)の奉仕や、同世代の娘を持つ父親として子育ての話をする関係ぐらいでしたよね。
実はあの日、私は緊張していました。
「先生に、何を祈ってもらったらいいのかわからない。」整理がつかない状態で御茶ノ水駅に降り立ちました。
KGK事務所に入ると、満面の笑顔で迎えてくれました。そして「体調はどうですか」から話が始まり、私の言葉に「そうですか。それで……」と耳を傾け聴いてくださいましたね。私はこれからの治療、家族、仕事等、堰を切ったように話しました。話しながら、私の漠然とした不安が整理されていきました。
そして、私の抱える一番の不安は「私が死んだ後の家族のこと」でした。
私はクリスチャンで、自分は死んでも天国に行くからと死の恐怖をあまり感じてきませんでした。しかし専業主婦の妻と、当時高校生と中学生と小学生の三人の娘たちを残して、自分が死んでしまったら家族はどうなるのだろう?という恐怖を心の奥深くにずっと持っていました。
今までも考えなかったわけではありません。しかし考えないようにしていたと思います。心にある思いを言葉にした時に、不安は現実の問題となり、襲いかかってきました。
すると先生はすぐに「大介さん、祈りましょう」と言って、祈りながら号泣していました。その声につられ、私も号泣しました。
その祈りに、とても心の安らぎを感じたのです。
お祈りのあとの第一声は、「先生、家族をよろしくお願いします」でした。
そして「私の葬儀もよろしくお願いします」でした。
私が初めて語った「遺言」でした。
先生は、どんな気持ちでこの「遺言」を聞いていたのですか?
先生は泣きながら「うん、うん」とうなずいていました。そして、祈り終わった後、お互い笑っていました。気持ちはすっきりしていました。
すると先生が「大介さん、うまいラーメンを食べに行きましょう」と言いました。食事療法関係の本を読みあさっていた私は、食には気を使っていましたし、ラーメンなど一番避けてきた食べ物でした。
しかし先生はどんどん歩いて、駅前のラーメン屋を案内し、入って行きました。予想を裏切らない豚骨スープのこてこてのラーメン屋でした。「えっ!」と難色を示す私に「こういう時は、体にちょっと悪い食事のほうが元気が出ますよ!」と満面の笑みで語りました。
「ちょっとどころじゃない」と反論もできない私に、注文をするようにと言う……。
でも、久しぶりのラーメンはおいしかったです。そして、ちょっと食べすぎましたが、晴れやかな気持ちで帰路につくことができました。