連載 ニャン次郎の哲学的冒険 人間社会を生き抜くための西洋哲学入門 第6回 「絶望は信仰の始まり」 主体性を強調した哲学者キルケゴール

ニャン次郎(代筆・岡村直樹)

 

ニャン次郎(主猫公)
クリスチャンで大学生の飼い主を持つ茶トラ猫。哲学の授業で困っている飼い主を助けるため、歴史上の様々な哲学者に直接会って話を聞く旅に出ることに!
岡村直樹(代筆者)
ニャン次郎の代筆者。
東京基督教大学の先生で、出身校であるトリニティー神学校ではキリスト教哲学を専攻。

 

こんにちは! ニャン次郎です。
ボクの飼い主のお兄さんは、大学の哲学のクラスで「実存主義の創始者はクリスチャンだった」と聞き、意外すぎて理解できなかったそうです。そんなお兄さんのため、今回は有名なデンマーク人哲学者のキルケゴール先生に会ってお話を聞いてきました。
セーレン・キルケゴール先生(一八一三〜一八五五年)は、デンマークのコペンハーゲンで裕福な商人の家の末っ子として生まれました。父親は熱心なクリスチャンでしたが、実は過去に犯した過ちから来る罪悪感でとても苦しんでいました。そんなお父さんの影響もあり、先生自身も強い罪責感を持っていろいろ悩み、なんと愛する人との婚約を自分から破棄するというつらい経験までしたそうです。また牧師になるためコペンハーゲン大学で神学を学びましたが、卒業後は牧師にならず、執筆家の道を選びました。残念ながら、生前に注目を集めることはほとんどありませんでしたが、二〇世紀に入ると一転して現代哲学に大きな影響を与えた哲学者であると評価されるようになっています。
キルケゴール先生の哲学には、当時、大人気だったヘーゲル先生の哲学と対照的(対抗的)な特徴があります。ヘーゲル先生は、「『絶対精神』が歴史や文化の中で発展していき、最終的に真理に近づいていく。人間も絶対精神の一部である」と説いていました。しかしそのような思想の中では、「私という個人」は埋没してしまうとキルケゴール先生は感じ、「単独者としての私」を常に意識する考え方を強調しました。
またヘーゲル先生の哲学の中心にある「弁証法」は、「あれも、これも」がひとつになって、新しいものが生み出されていくという歴史の営みです。そのような思想に対抗するかのように、キルケゴール先生は『あれか、これか』という題の本を書いています。先生はその中で、もっと「個人」が主体的に「自分が情熱を傾けることのできる真実」を選択することが大切であると主張しています。それは、「現実に存在する私」に焦点を当てた新しい哲学的アプローチの誕生でもありました。難しい言葉で「実存主義」と言うそうですが、キルケゴール先生は、その先駆者だったのです。
先生は、こう話しかけてくれました。
「ニャン次郎くんの飼い主のお兄さんは、どんな人かな?」
「とてもやさしくて、たくさんかわいがってくれます。でも、時々落ち込んだりします。」
「どんな時?」
「大好きだった彼女と別れなくてはならなかった時は、とても落ち込んでいました。」
「その気持ちわかるなあ! お兄さんはどうしてた?」
「暗い部屋の中で一人、長い間お祈りしていました。」
「かわいそうに。でも、苦しい時にこそ一人で神の前に進み出る! それが大切なんだよ!」
キルケゴール先生は、『死に至る病』という本の中でこのような言葉を書いています。「人間の絶望は長所であろうか、それとも短所であろうか? 絶望はその両方である。」キルケゴール先生は、自らの努力で倫理的に生きようとする人は必ず絶望し、孤独になる。しかしそのような状態だからこそ、たった一人で神の前に進み出る決断をすることができるようになる。それを通して、人間本来の生き方に目が開かれるのだと言いました。また『恐れとおののき』という本の中では、「信仰は、理性を超えた情熱の飛躍である」とも言っています。
そういえば、以前お話を聞いたパスカル先生は、人間は理性を突き詰めると、理性の限界が見え、信仰の必要性に目が開かれると言っていました。何だか少し似ているなあと思います。聖書には、神様が私たちを選んでくださるという視点がありますが、キルケゴール先生は、あくまで人間の立場から考察されているのだと思います。
キルケゴール先生の思想は、神に結びついているので「有神論的実存主義」と呼ばれますが、先生以降の実存主義哲学は、無神論の方向に進んでいきます。
次回はそんな哲学者のひとり、有名なニーチェ先生に会ってお話を聞きます。
ニャン次郎でした!