新連載 祈られて、がんと生きる ボクと牧師の24の往復書簡 一回目 祈られること 大嶋重德

大嶋重德
1997年からキリスト者学生会(KGK)主事となり、学生伝道に携わる。KGK総主事を経て、現在、鳩ヶ谷福音自由教会牧師。太平洋放送協会(PBA)ラジオ「世の光」メッセンジャー。

峰岸大介
鳩ケ谷福音自由教会教会員。2013年から胸腺がんを患う。東日本旅客鉄道株式会社勤務。
妻と3人の娘の5人家族。

 

突然、がんになったことを知った時、人はだれしもが動揺します。平然といられる人などいません。家族もそうです。
私の小学生の頃に、母が卵巣嚢腫の診断を受け、悪性か良性かわからないと聞き、「自分の母親が死ぬかもしれない」と恐怖を感じ、泣きじゃくりました。
母方の祖父も肺がんで亡くなり、父方の親戚もがんで亡くなりました。小学生の頃から「いつの日か、自分もがんになる日が来るかもしれない」と、ずっとそんな不安を抱えてきました。
数年前、妻が乳がんの疑いがあると診断されました。すると妻は私に「私、いい人生だったよ。ありがとうね」と言うのです。何の言葉も返せない自分がいました。だれかに「祈ってほしい」と思いました。私は牧師です。しかし、ひとりでは祈れないと思いました。何と祈ればよいのかもわからなくなりました。

 

この連載は、がん患者の峰岸大介さんと牧師との往復書簡です。「祈られること」が、どれほどの力になるかを知ってほしいと思って記しました。
大介さんは、私にだれかの人生に牧師でいるということを教えてくれた人です。
牧師とは、もともと「羊飼い」という意味です。羊は目があまり良くない動物です。羊飼いのもとを離れてしまうと迷ってしまって、野犬や狼に襲われてしまいます。羊飼いは、羊を食べるべき草のあるところで養い、道から逸れることのないように導き、危険から守り、群れの中にいるかどうかを確かめ、時に生命を守るために狼と闘います。

 

大介さん、私はあなたの牧師としてふさわしくあなたの人生に寄り添って歩いてこられたでしょうか。大介さんに教えてほしいのは、牧師が自分の人生にいるということがどんな意味があったのかということです。

 

現代はだれもががんになる可能性があり、またがんも、かつてのように治らない病気ではなく、完治(寛解)することもあり得る病気になってきました。しかし、それでも日本人の死因の圧倒的な一位(二五%以上)はがんです。そして、治るよと言われても、「また、いつ再発するのだろう」という不安がいつも心につきまといます。
大介さんは、「先生、祈ってくれてありがとう」と会うたびにいつも言います。
大介さんは知っているのです。だれかが「祈ってくれること」によって、どれだけこの病気に向き合うことができるのか。そして、自分がだれかのために祈ることが、だれかのために役に立つ人生を歩けるのだということを。
そして何より、本当に祈りが聞かれ、神の癒やしが自分の身体と心に、何より魂に平安をもたらすこととなるのかを知っている人です。
私たち二人のやり取りが、多くの方の励ましになること、慰めと癒やしになることを祈っています。