連載 ニャン次郎の哲学的冒険 人間社会を生き抜くための西洋哲学入門 第3回 「人は考える葦である!」 天才科学者と理性

ニャン次郎(代筆・岡村直樹)

 

ニャン次郎(主猫公)
クリスチャンで大学生の飼い主を持つ茶トラ猫。哲学の授業で困っている飼い主を助けるため、歴史上の様々な哲学者に直接会って話を聞く旅に出ることに!
岡村直樹(代筆者)
ニャン次郎の代筆者。
東京基督教大学の先生で、出身校であるトリニティー神学校ではキリスト教哲学を専攻。

 

こんにちは! ニャン次郎です。
ボクの飼い主のお兄さんは、大学の哲学のクラスで教わった「人間は考える葦である」という言葉の意味がよくわからず、とても困っています。そんなお兄さんを助けるため、今回は、哲学者のパスカル先生に会って、お話を聞いてきました。
ブレーズ・パスカル先生(一六二三~一六六二年)は、フランスのクレルモン=フェランという町で生まれました。ガリレオ先生や、前回紹介したデカルト先生が活躍していた科学革命の時代です。アマチュア科学者でもあったお父さんから英才教育を受けたパスカル先生は、三角形の内角の和が一八〇度であることを十二歳の時に自力で証明し、また十六歳で「円錐曲線に関する射影幾何学の法則」を発見しました。これは今でも「パスカルの定理」として知られています。
その後も、機械式計算機の発明や、「パスカルの原理」と呼ばれる圧力の法則の発見が続きました。天気予報でよく耳にする圧力の単位「ヘクトパスカル」も、パスカル先生に由来しています。すごいですね!
しかし、そんな天才科学者のパスカル先生に転機が訪れます。一つ目の転機は、愛するお父さんの死でした。それまで科学にしか興味のなかった先生は、初めて人生の儚さを感じたのです。また、パスカル先生はもともとカトリック信者でしたが、先生自身が「火の夜」と呼ぶ、一六五四年十一月二十三日の霊的な体験を通して神様への献身を決心したそうです。そこから、クリスチャンとしての本格的な執筆活動が始まりました。
パスカル先生は、お姉さんのジャクリーヌさんが修道女をしていた「ジャンセニスム派」というカトリックのグループに属しました。ジャンセニスム派は、理性の堕落と人間の罪深さ、そして神からの一方的な恵み(恩寵)の必要性を強調していました。この派は当時のカトリック教会よりも、プロテスタントの宗教改革者カルヴァンさんの神学に近かったという見方もあるそうです。興味深いのは、人間の理性をフル活用してトップレベルの科学者の道を歩んでいたパスカル先生が、ある意味対照的な教えを持つ神学を受け入れたということでしょう。
パスカル先生はその後、「考える葦」や「クレオパトラの鼻」等の名言が満載の著作の執筆に取り組みました。残念ながら、先生は三十九歳という若さで亡くなったため、家族や友人が未完成の原稿をまとめ、『パンセ(思索)』として出版しました。『パンセ』は、西洋社会で聖書の次に読まれている本であるとも言われています。
パスカル先生はこう言いました。
「ニャン次郎くん。きみは葦という植物を知っているかい?」
「はい、ススキみたいな細長い植物です。」
「葦は丈夫な植物かい?」
「いいえ、強い風が吹けば折れてしまいます。」
「そうだね。ボクは人間も葦のように弱い存在だと思う。でも、そんな人間には『考える』というとても素晴らしい能力、つまり理性が備わっているよ。ちなみに、ニャン次郎くんはとても理性的なニャンコだね!」
「ありがとうございます。」
「じゃあ、理性の最も大切な役割は何だと思うかい?」
「科学の進歩ですか?」
「いいや、理性の最も大切な役割は、理性自体がよく間違えることと、人間は有限で儚い存在であることを知ることだとボクは思う。だから理性をよく働かせると、人間には絶対で無限な聖書の神様が必要だ!ということがわかるんだよ。」
厳しい言葉も多いパスカル先生ですが、「人間は理性によって信仰の必要性に目覚める!」という考え方はとても斬新だと思いました。先生はさらに、クレオパトラの鼻を使って皮肉たっぷりに言い表した「人の見た目に左右される歴史の偶然性と軽薄さ」や、「気晴らしの人生の虚しさ」などについても語っています。今度本屋さんに行ったら『パンセ』を探して、ぜひ肉球でページをめくってみたいと思いました。ということで、これからお兄さんに報告します。
次回は、『純粋理性批判』を書いたカント先生と会います。
ニャン次郎でした!