特集 コミュニティ―地域に仕える教会 「育ちのコミュニティ」としての教会

コミュニティ(共同体)としての教会は、内側だけでなく外側に向かっても使命が与えられているはず。それぞれがたてられている地域において、教会にはどのような役割があるのだろうか。

 

「育ちのコミュニティ」としての教会
児童精神科医・メンタルクリニック“やまねこ”院長 田中哲

 

 自分自身のこと・家の育ちと教会
個人的な話からで恐縮だが、私はコミュニティとしての教会に育てられた。
開業医だった父親がほとんど休みなく働く人で、わが子の日曜日の居場所を、近くの教会に丸投げしてくれたためである。私は自分の意思とは関係なく、教会に通い始めた。
ずっと後になってから、父親が私たちを教会に行かせた理由が、父親に決して人に語ろうとしなかった子ども時代の日曜学校体験があり、成人した自分のバックボーンのなにがしかを、そこで育ててもらえた経験があったためであったことを知ることになる。父親自身も、コミュニティとしての教会に育てられた経験を持っていたのである。
父親は、人生の最後の曲がり角に立ったとき、自分のルーツである教会へと舵を切り、受洗してわずか数年後に、天に召されていった。
自宅と母教会を離れての大学時代、私は所属する教会の日曜学校では、中学科の教師をしていた。しかしそこに集まってくる子どもたちの「集まって時を過ごしたい思い」を日曜朝のクラスだけではまかないきれず、やがて土曜日の自宅は子どもたちのたまり場と化し、毎週土曜日の午後いっぱいを、私と子どもたちはさまざまな体験を共有しながら過ごしたのだった。
じつはこの時の体験が、児童精神科医としての私の原点になっている。
私の母親は、育ちの過程では教会的な背景の全くない人だったが、長男である私が自分の元を旅立ち、学生生活を送る様子に嫉妬と疑問を感じ、かつて子どもが通っていた教会を訪れるようになった。そこで自分の子どもを育てていたものに触れ、やがて自らも救いを与えられるようになる。
私自身の三人の子どもたちは皆独立しているが、じつは現在、誰も教会にはつながっていない。しかし確実に言えることは、われわれ夫婦は子どもを育てるという大事業において、教会コミュニティの恩恵を最大限に受けたし、子どもたちは教会というコミュニティの空気をたっぷり吸いながら育った。その事実は、すでの私の子どもたちの人格の一部として、彼らの生涯に組み込まれている。
当時属していた教会の場を借りて、「子育ての広場」というコミュニティを立ち上げ、子育てをテーマにした自由交流を図ったことがある。数十人の人々が集まって、子育てについて自由に語り合い、教会員の有志が世話人をしていたが、その会合で伝道的な活動は一切なく、教会にはただ場を提供していただいた。しかし、そこから教会につながる人が何人かおこされたことは、驚きでもあった。

 

 現代の子どもの心の問題とコミュニティ
このような形で個人的体験を列記した時に見えてくるものは、子どもの育ちのためのコミュニティとしての教会の潜在力だ。
現在の私は、児童精神科医として子どもの心の育ちに深く関わっているが、そこで否応なしに見えてくるものは、現代の子どもたちにとって、心の育ちを支えてくれるコミュニティの力が低下しているという事実である。現代の大人たちは、かつてのようにコミュニティの場を借りて、自由に自らの子ども以外の子どもたちの育ちに関わることができなくなってしまった。
現在では「発達障害」とラベリングされるであろう子どもたちも、かつてはコミュニティに組み込まれて成長し、その固有の課題を乗り越えていくことが可能だった。つまり、「発達障害」と名付けられる必要がなかったのだ。
現在では「不登校児」という名で呼ばれる子どもたちも、かつては学校に行けないということでコミュニティに居場所を失うことはなく、その子なりのやり方で大人になっていくことが可能だった。つまり、不登校が現代のように社会問題化することはあり得なかった。
子どもたちの間の疎外関係、つまり「いじめ」は、どの時代にも何かの形で存在していたが、そのことで子どもが生きることの意味を見つけられなくなり、自ら死を選ぶようなことはしなくてもすんでいた。成績が思うように上がらないからといって、将来に希望がないような指導をされ、生きていても仕方ないと思うようなこともなくてすんでいた。
にわかに大人になるやり方を見つけられない子どもたちも、見つけられるまでの期間をコミュニティの中で過ごすことができ、「ひきこもり」のような行き場を失った状態に陥らなくてすんでいた。
自分の育ちが支えられていないために、わが子を適切なやり方で育てていくことができない親たちの子どもも、そのことで居場所を失うことはなく、地域の誰かが面倒を肩代わりしていた。つまり親たちは、子どもを育てることに行き詰まって、虐待に走ることもしなくてすんでいた。
このように考えていくと、現代の子どもたちの心の問題のほとんどは、コミュニティが「子どもを育てる」という役割をうまく果たせなくなっているという事実を背景に持つか、少なくともそのような要素が確実に存在すると私は考えている。

 

 子どもの心の育ちに対する教会の役割 
そこで、この時代の教会に連なるわれわれに、いったい何ができるのかを考えてみたい。
聖書の記述に見るように、イエスは子どもたちをコミュニティの周辺に追いやることをせず、中心に据えられた(マルコ一〇・一五参照)。この考え方を、教会は脈々と継承している。
たしかに、現代の教会の日曜学校は、時代の流れであるコミュニティ力の低下を反映して、集まる子どもの数を減らしてはいる。しかし、それは教会が継承してきた育ちのコミュニティとしてのあり方とは、異なる次元の問題である。
コミュニティとは、「大切な何か」(munus)を「共有する」(co-munus)人々を意味する。われわれが大切にする「何か」、それは主イエスご自身であり、イエスが大切なものとして中心に据えられた子どもの「育ち」なのではないだろうか。
このように考えた時にまず見えてくるものは、教会が、教会員の子どもたちだけではなく、その置かれた地域の子どもたちの心の育ちに、役割を与えられているという事実である。そのあり方を読み取ることができた時に、はじめて、何ができるかという課題に取り組むことができる。
そのことが、われわれに委ねられているのである。

 

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