特集 話題の新刊『「日常」という典礼』を語る
礼拝やディボーションの時だけではなく、日常の中で神と共に生きることを深めたい。新刊『「日常」という典礼 日々の生活の中で養われる霊性』の訳者・中村佐知さんのロングインタビューを手がかりに、暮らしの中で神と交わる恵みを味わう。
好評既刊
『「日常」という典礼 日々の生活の中で培われる霊性』
ティシュ・ハリソン・ウォレン著・中村佐知訳
四六判・240頁 定価2,200 円(税込)
いのちのことば社
妻・母・聖職者として多忙で煩雑な日々を送る著者が、日常生活のただ中で一瞬一瞬を聖なる時間として主と共に過ごす秘訣を記す。ありふれた毎日の営みから霊性を養っていく術を、率直に綴った神学エッセイ。
「聖なる普通の毎日」を生きる
翻訳家・霊的同伴者 中村佐知 (聞き手・結城絵美子)
- 結城
- 『「日常」という典礼』の原書、Liturgy of the Ordinaryを紹介してくださったのは佐知さんでした。これがどういう本かについて、また、出版を勧めてくださった理由を教えてください。
- 中村
- 本書は、神様との出会いや、神様の働きによって私たちの霊的変容がなされる場は、特別な祈りの時間や教会での礼拝だけでなく、私たちの日常の生活のありふれた営みの中にこそあるということを思い出させてくれるものです。
- 結城
- 佐知さん自身がこの本を通して気づかれたこと、変化したことはありますか?
- 中村
- 私たちの日常生活、普通の日々の一瞬一瞬が、実は「聖なる」ものであること、「聖と俗」という二元論ではなく、受肉されたキリストのおかげで、日常のすべての瞬間が神に属する聖なるものとなりうるということを教えられました。それは嬉しい気づきでした。
- 結城
- この本に紹介されている実践で佐知さんも取り入れていらっしゃるもの、あるいは、この本からヒントを得て生まれた佐知さんの生活のルーティーンはありますか?
- 中村
- 本書に出てくる「実践」のほとんどは、いわゆる「霊的修練」と呼ばれる活動ではなく、私たちが皆、普段から普通に体験していることです。ですから、私もこの本を読んで新たな実践を取り入れたということはありません。むしろ、すでにあったルーティーンや日常の営み(たとえば皿洗いや家族を駅まで車で送迎することや、植物に水をあげるなど)の中に神様をお迎えし、それを主と共に行うこと、またその中で聞こえてくる神様の語りかけに耳を澄ます、ということを意識するようになりました。
- 結城
- プロテスタントの教会には、「形式に縛られる」ということに対する抵抗感があるように思います。
- 中村
- 「形式に縛られない自由さ」というのは、時には「自分で選択する」「自分で生み出す」という負荷になることもあると思います。そうすると、特に自分が弱っている時など、礼拝や祈りが重荷になって、できなくなってしまうこともないでしょうか。しかし時には、とにかく形式に自分を乗せるなら、自力でがんばらなくても神様の御前に運んでもらえる、という安心感があるように思います。
- 結城
- この著者には、まだほかの著作もあり、佐知さんは近々、次の本の翻訳に取り組まれる予定でいらっしゃいますね。それはどんな本なのか、教えていただけますか?
- 中村
- 著者の二冊目の本で、Prayer in the Night(いのちのことば社刊行予定)というものです。これは、人生の中で誰もが経験する「夜」――不安で眠れない時、答えの出ない問いを抱える時、神が遠く感じられる時など――に寄り添ってくれる本です。著者は、自身の流産という深い痛みを通して、祈ることさえ難しくなる時があるという現実を率直に見つめながら、古くから教会に受け継がれてきた夜の祈り「コンプリン(就寝前の祈り)」の祈祷文を手がかりに、その夜を神と共に生き抜くためのことばと姿勢を示します。そして神の臨在を感じられなくても、信じきれなくても、祈りに身をゆだねることでなお神の臨在の中にとどまり続ける道があることを、静かに、しかし確かに示してくれます。
- 結城
- その本を読むこともとても楽しみです。今日はありがとうございました。
私は、「霊的同伴」(注:霊的同伴者と1対1で対話を交わすことによって行われる、信仰者の霊的成長の歩みを助けていく営み)との出会いを通して、「静まり」の大切さに目が開かれ、その中で与えられる神様との交わりについて、いろいろな機会に分かち合うようになっていました。私自身は子育てが一段落し、自分の自由になる時間が多くあり、ゆっくり静まったり、リトリートに行ったりということが可能でした。しかし、子育てや仕事で忙しい働き盛りの人たちからは、「私の生活には、時間的にも精神的にも、『静まる』ためのスペースがない」「『静まり』は性格的に私には合わない」といった声を聞くことが多くありました。そこで、忙しくゆとりのない日々を送っている人たちも、神様の臨在の中で日々を歩むことを体験するには、何が助けになるだろうか、という思いが私の中に長らくありました。
そんな時、この本のことを思い出したのです。
本書は、必ずしも特別に取り分ける時間や新しい霊的修練を増やすことについて語っているのではありません。むしろ自分がすでに普段から行っている活動、日々直面する状況のただ中に神様をお迎えすることについて語ります。特別な時や場所でだけ神と出会うのでなく、ありのままの自分の日々の営みの中に、すでにそこにおられる神を見出す。それは簡単そうでいて、ある種の認識の転換が必要になるので、必ずしも簡単ではないかもしれません。でも、私はそこに真実なものと希望を感じたのです。
私の霊的同伴者は、intention(これを神の御前で神とともに行います、神に捧げます、という「意図」)とattention(そこに在る神の御臨在や、自分自身の心の動きなどに「注意を払う」)を持って行うなら、ほぼどんな活動でも霊的修練になりうるといつも言うのですが、本書は私にとって、まさにそれが一日をとおしてどのような形でなされうるのかを具体的に見せてくれました。
また、日々の中で体験することへの自分の反応の仕方には、自分がこの世の中を、自分自身を、他者を、また神様をどのように見ているのかが、さりげなく現れてきます。著者の例で言うなら、鍵を失くした時、配偶者と喧嘩をした時、渋滞で動けなくなった時などの反応です。自らの一日を振り返ってみると、短いいくつかの祈りの時間以外には、まるで神を知らない人のように物事に反応したり、選択したりしていたと気づくかもしれません。その意味で本書は、日々の生活の中に現れている自分の在り方を振り返ることも助けてくれました。
私は本書の原書を、出版されてすぐの時(二〇一八年)に読んだのですが、それ以来「聖なる普通の毎日」ということが私のモットーのようになりました。そして、私が関わっているミニストリーの中でも、それをテーマにした活動を始めました。オンラインの黙想会で、自分の普通の毎日を聖なるものとして受け止め、私たちの日常の体験の中で働いておられる神様に目を留めようというものです。三か月に一回のペースでもっています。
一時間半という短い時間ですが、過去三か月を振り返り、日々の生活の中で気づかないまま通り過ぎていた神様の恵みがなかったか、思い巡らせます。また、生活の中で特に強い感情をもって反応した出来事に注意を払い、そこにあった自分の願いや切望は何だったのか、またそこで神様が何を語っておられるのかといったことに耳を傾けます。
「意識の究明」というキリスト教の伝統的な振り返りの修練や、「レクチオ・ディヴィナ」というみことばに導かれる黙想を土台にしています。参加してくださっている方々にとって、三か月ごとに立ち止まり、自分の「聖なる普通の毎日」を振り返る良い機会になっているようです。
ともすると、イエス様が来てくださったのだから、もう形式なんか必要ない! と考えがちな部分があるかもしれません。ですが、この本を読むと、形式に助けられることもあるのかな、という感想をもちました。その点はいかがですか?
もちろん、形式が文字どおり「形だけ」のものになって、いのちを失ってしまうこともあるでしょうし、それが私たちを縛ってしまうこともあるでしょうが、「形式」の中にある聖霊の息吹に気づくなら、形式自体は、means of grace(恵みの流れ込む経路)の一つだと思います。
形式といえば、私自身は、祈祷書を用いて祈ることを、十年くらい前から自分の個人の祈りの時間にも取り入れるようになりました。祈祷書を用いて祈るとはプロテスタントにはない習慣なので、私も最初はピンときませんでした。でも、祈れないと感じる時、主の祈りをはじめ、伝統的に教会で祈られてきた祈りや祈祷書を用いて祈ることがとても助けになることを体験しました。自分のことばでももちろん祈りますが、今では祈祷書の祈りに助けられ、励まされ、目が開かれることが多いです。それらの祈り(詩篇も含む)は、信仰の先達たちと神との愛の関係(時には葛藤や訴え)の記録でもあり、その祈りに加わらせていただくことは、より大きな信仰共同体の中に入れていただくことのように感じます。
中村佐知さんが選んだ定型の祈り
~日本聖公会祈祷書より~
・憐れみ深い神よ、心の闇を取り除き、安らかな眠りを授け、新しい日の喜びに目覚めさせてください。主キリストによってお願いいたします。アーメン(就寝前の祈り 96頁より引用)
・全能の神よ、すべての心は主に現れ、すべての望みは主に知られ、どのような秘密もみ前に隠れることはありません。どうか聖霊によってわたしたちの心を清め、まことに主を愛してみ名の栄光を現すことができますように、主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン(聖餐式 162頁より引用)
・確かなみ摂理により、わたしたちの生きるこの世界とその生活を支えてくださる神よ、どうか夜も働く人を守り、苦しみ悩む人を慰め、病気の人を強め、死に臨む人に祝福を与えてください。そしてわたしたちの生活が、互いの力によって担われていることを、深く心に刻むことができますように、主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン(就寝前の祈り 96~97頁より引用)
『「日常」という典礼 日々の生活の中で養われる霊性』さわり読み
使徒たちが厳しく反対した最初の異端の一つがグノーシス主義であったのも不思議ではありません。グノーシス主義とは、より高次の霊的現実を信奉するゆえに身体を重視する生活を避けるという考えです。グノーシス主義では、歯磨きもシャワーを浴びることも爪を切ることも、魂が純粋な霊的生活に入っていくうえでの面倒な邪魔物でしかないでしょう。しかしキリストにあっては、これらの身体的な活動は神の創造的な善に対する応答です。私が磨く歯、私がシャワーを浴びる身体、私が切る爪は、人間の身体を拒絶しない、愛に満ちた創造主によって造られました。拒絶するどころか、神はすべてを含めて、「非常に良かった」と宣言なさいました。そして私たちを身体ごと贖うために、神ご自身も肉をとられ、そうすることで肉体を持つことそのものを贖ったのです。
創世記には、堕落の後、身体を持つことには恥の経験を伴うようになったことが記されています。アダムとエバは、自分たちが裸であることに気づき、神からも互いからも隠れるために、身体を覆い隠そうとしました。身体を持つことは、多くの場合、喜びと楽しみの源ですが、恥ずかしさも伴うことがあります。身体を持つということには、どこか見苦しいと感じるものがあります。私は、口臭を防ぐために歯を磨きます。唾液を吐き出し、デンタルフロスをし、歯の間に挟まったトウモロコシをかき出さなくてはなりません。
身体を持って生きることにはもっと恥ずかしい側面もあり、そういったことについては、口にすることさえ好まない傾向があります。それでも、神はそのすべてに身を置かれました。……イエスにも口臭はあったでしょう。子どもの頃はおねしょもしたかもしれません。鼻が曲がっていたかもしれませんし、歯並びが悪かったかもしれません。体臭もあったでしょう。イエスもご自分の裸を覆われました。しかし、キリストの身体におけるいのちの死と復活のゆえに、キリストにある私たちは、「キリストを着る」のです。アダムとエバがいちじくの葉では覆うことのできなかった、身体を持つことの恥――究極的には罪の恥――は、キリストご自身にあって永遠に解決されたのです。
(本文44~45頁より引用)