時代を見る眼 381 震災を越えて、今〔3〕 熊本から

神様の「時」を想う

熊本地震発生から10年を想う。
大自然の阿蘇の風景、熊本の街並み、多くの人たちの人生を一瞬にして変えてしまった大規模災害。色づいていた当たり前の日常がモノクロに変わり、誰もが「なぜこんなことが起きたのか?」と言葉にしていました。
今日、10年の時を経て熊本の被災地から聞こえてくる言葉は「これが起こらなければ……」というモノクロから、少しずつ色がつき始めています。
震災支援、コミュニティ支援、そして今も被災地と共に立っている人たちがいます。
それは、被災地教会・キリスト者の存在です。同じ時に被災し、変わり果てた光景を見て、苦しみ・葛藤しながらも、ここまで共に歩んできた良き理解者でもあります。
でも、彼らも被災者でした。
私たち九州キリスト災害支援センターは、地域教会の傍に立たせていただきました。彼らが再び立ち上がるまでに、10年という時間が必要でした。
私たちは前災地から学んで、次期災害のためにさまざまなものを駆使して整え、備えていきます。
「備えあれば憂いなし」
もちろん、そうですが、神様は人を用いてくださる方です。この「人」は完全な者ではなくて、不完全な、欠けある者をあえて用いてくださいました。
弱さの中に主の力が完全に現れるように、不完全な者にこそ主は共におられ、神の国の幸いが光輝き始めていくのではないでしょうか。
心貧しい者、悲しむ者、そこには天の御国と慰めが注がれて、コップが一杯になってあふれるように、心が満たされた時に初めて誰かのために立つことができる。
そこには、神様の「時」を想う必要があります。
熊本地震から10年を想う時に、神様の指紋が至るところに押されていたことに気づかされます。そして、私たちに対する神様の意図を明確に知ることになるのです。
はからずも、これまで経験したすべてを通して、「これが起こらなければ……」人は光を見出すこともできないでしょう。

「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです」
(マタイの福音書5・16)