孤独の中の友へ ?信じても苦しい人に送る「片道書簡」三回目 イエス様の愛

中村穣(なかむら・じょう)
18歳の時にアメリカへ家出。一人の牧師に拾われ、キリストと出会う。牧師になると決意し、ウェスレー神学大学院を卒業。帰国後、居場所のない青年のための働きを2006年から始める。2014年、飯能の山キリスト教会を立ち上げ、教会カフェを始める。現在、聖望学園、自由学園、JTJ神学校での講座を担当。

嫉妬について
皆さん、お元気ですか? 寒さがひと段落すると、「何かしようかなぁ」という気持ちになりますよね。そんな時に、凝り固まっていた自分が解き放たれるような、“自由”を感じます。
イエス様と出会う以前は、“こうあるべき”という固定観念に縛られすぎて、自分に自信がなく、この自分から解き放たれる自由という感覚がありませんでした。いつも檻に閉じ込められているような自分がいました。それなので、イエス様と出会って自由にされたとき、世界の色が違って見えたのをよく覚えています。本当にうれしい瞬間でした。
でも数年してから、以前のような不自由さというものが舞い戻ってくる瞬間がありました。皆さんはそういう経験がありませんか? イエス様と出会って自由にされたけれど、なんだろう、ある意味、イエス様といるから逆に不自由に感じることも出てきたりして……。「こんな自分は不信仰なのかなぁ」と思ったりしたことがあります。
自由に買い物に行けても、あの人が持っているあれのほうがいいなぁと、買った物以外が欲しくなり、物の虜になってしまいます。自分の将来が選べることは自由だと思っていたけど、でも、実際に選んでみると、隣にいる人の職業のほうがいいなぁと比べてみたりして苦しくなります。自由に選べることが、決して自由になるということじゃないんだなぁと思ったわけです。
そんなとき、コーヒー片手に聖書を読んでいると、こんな言葉が目の前に出てきました。それは、「御救いの喜びを再びわたしに味わわせ/自由の霊によって支えてください」(詩編51・14、新共同訳)という言葉でした。私の思っている“自由”は、聖書が言う“自由”とは違うように感じました。
この箇所に出てくる「自由の霊」は、救いの喜びを返してくれて、私を支えてくれるのか―。そんなとき、はっと気づいたのです。自由を求めているがゆえに、自由ではなくなっていく私の心には、どこか奥深いところに“嫉妬”があるんだなと。私自身はイエス様と出会って、「あなたの居場所はここだよ」と言われ、神様の真実の愛を受けて自由になりました。でも、自由になった私の心の中には人と比べてしまう嫉妬心があり、ある意味、それが不自由さを生んでいたわけです。

 

復讐心からの解放
旧約聖書に出てくる、「目には目を、歯には歯を」(出エジプト21・23)という言葉は復讐の仕方を教えているのではなく、償い方を教えていると聞いたことがあります。目をやられたから目を傷めつけてやる!ではなく、何かを傷めてしまった償いはそれ相応にしましょうと教えているのです。でも、イエス様は、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(マタイ5・39)と言われました。
これは、イエス様の真実の愛は、やられたらやり返すという「できる・できない」の量りを、あなたの心から取り除いてくれるということですね。ということは、私たちは、人を赦せるようにしてくれることを望むのではなく、イエス様が赦せない心を持つ私たちを赦してくれるということを、まず信じる必要があるのです。ここに、神様が私たちに与えてくれる“自由”があるのだと気づいたのです。

 

できない私をイエス様は愛してくれる
一つ大切なことを発見したのですが、“自由”って自分が何を見ているかで変わるんですよ。自分のしていることやできることを見ていると、かならず不自由に感じます。でも、神様を見つめていると、自由さは消えないんですよ。
たとえば、人を赦すことのできない自分を見ていると、「どうしたら赦せるのか」「でも無理だし……」「自分って最低だなぁ」と思ってしまいます。でも、神様を見つめていると、人を赦せない心を持つこの私でさえも愛してくれていて、「わたしのところに来なさい」と招いてくれていることがわかるんです。自分では赦すことができないけど、神様が一緒にしてくれるって言っているのがわかるんです。
それは、赦せるという、「できた」という励ましを求めるのではなく、赦すことの「できない」自分を認め、主にあって、解放されること(自由になること)なのです。

※今回の連載の内容をさらに詳しく知りたい方は、YouTubeチャンネル「飯能の山キリスト教会」から、ロングバージョンのメッセージを聞くことができます。
https://www.youtube.com/@nogarenomachi