キリストの弟子ってなんなん? 3
~恵みは人格的~
久保木聡(日本ナザレン教団大阪桃谷教会牧師)
1972年福岡県生まれ。オカリナ奏者として各地で演奏。非暴力コミュニケーション(NVC)の講師としても活躍中。著書に『オカリナ牧師の聖書ゆるり散歩』(いのちのことば社)など。
恵みとは何か? 大切な人が作ってくれた手料理から考えてみましょう。まったく同じレシピで一流のシェフが作るなら、絶妙な火加減と味つけのおかげで、もっとおいしい料理が出てくるのかもしれません。そうであっても、あなたにとって大切な人との数々の思い出、あのとき「おいしいっ!」と言って笑い合ったこと、落ち込んでいるわたしを励まそうと大好物の料理を奮発して作ってくれたこと、そんなことも含めて、その人の人格抜きに、手作りの料理の恵みは語れません。
恵みとは人格的なものです。仮に経済的に困窮している中、祈ったら、臨時収入があったとしても、恵みはお金というモノというよりも、祈りに応えて必要を満たす神さまというご人格が、わたしたちにとって恵みのはずです。料理そのもの、お金そのものも恵みであることは否定しませんが、モノとしての恵み以上に、恵みを人格的なものとして受けとめていきたいのです。
聖書を読むとき、ルールブックとして読むこともできれば、キリストの人格に出会おうとして読むこともできます。マルコの福音書3章1~6節に、キリストが安息日に手の萎えた人をいやすストーリーがあります。聖書をルールブックとして読むのなら(この箇所だと新約聖書がまだ存在してないので旧約聖書をルールブックとして読むのなら)、安息日に手の萎えた人をいやすことは、安息日にしてはならない労働をしたと見なされます。
そもそも安息日を制定した神の思いは、人間が定期的に労働から解放され、神に出会うために礼拝をし、休息して命を得ることでした。神は安息日を通して人々に命を吹き込みたかったのです。だから、キリストは安息日に手の萎えた人をいやしました。キリストはこの人に命を吹き込まずにはいられなかったのです。
聖書を読んで、ルールを見つけ、ルール違反に気づいたけれど、キリストの温かい人格に出会えないのなら、何かがズレています。聖書を読むのは、わたしたちに命を吹き込もうとするキリストの温かい人格に出会うためと言えます。
こんなふうに書くと、「イエス・キリストは罪に対して厳しい方じゃないのか!」とお叱りを受けそうです。ただ、福音書を読むと気づかされるのは、キリストは罪人や取税人たちと親しく食事をし、彼らと共に生きようとしています。そんなキリストに向かって聖書的でないと非難するパリサイ派や律法学者に対して、キリストは厳しいのです。自分は聖書がわかっていて、「正義」が何かわかっているのだという者に対して、キリストは厳しいのです。
自分の弱さ、不十分さを認めて、キリストの前に出て行きたいと思います。キリストはわたしたちの弱さをどこまでもわかっていて、赦し、受け入れ、命を吹き込んでくださいます。聖書からキリストの温かな人格に触れていきましょう。みことばに従うロボットにわたしたちはなるんじゃないのです。お互い呼べば応える、そんな人格的な関係に招かれているのです。
考えてみよう!
①恵みはモノだと考えるのと、恵みは人格的だと考えるのでは、どんな違いを感じますか?
②聖書を単なるルールブックととらえるのと、キリストの温かな人格に出会う本ととらえるのとでは、どんな違いを感じますか?