連載 伝わる言葉で伝える福音 第13回 「水は上から下に流れる」
青木保憲
1968年愛知県生まれ。小学校教員を経て牧師を志す。グレース宣教会牧師、同志社大学嘱託講師。映画と教会での説教をこよなく愛する、一男二女の父。
昨年一年間は、いわゆる「キリスト教業界用語」を一つ一つ取り上げ、その中身を分析し、現代的なフォーマットに変換するということをしてきた。もちろん、さらに細かくこの作業をしていくのもいいが、今回からもう少し俯瞰的な視点で「伝えるということ」について考えていきたい。
私は牧師である。だから教会で説教する。人と関わる。教会員からは(一応の)敬意を払ってもらえる。しかし一歩外に出ると、私は「ただのおっさん」としか見てもらえない。そのことを痛感したのは、今から十五年ほど前のこと。
その時私は、とある大学の入り口付近で春学期開始(四月)直後の学生たちに、教会のイベント(ゴスペルコンサートなど)のチラシを配っていた。しかし、ほとんど手に取ってくれない。手にしてくれる人はたまにいるが、ほとんどの学生は見もしないで、近くの備え付けゴミ箱に捨ててしまう。大学構内にチラシが散乱するため、それをむなしく拾い集めて帰宅することも何度もあった―。
それでも私はそこでいったい何枚のチラシを配布しただろう? おそらく六月か七月ごろまで粘って、数千枚は手渡しただろう。でも、一向に成果は上がらない。
いつしか私のチラシ配布は、個人的な「修行」や「メンタル強化の特訓」が目的となっていってしまった。「今日は〇時間粘って配れました!」、「配布するときドキドキしなくなりました!」という、己が厚顔無恥になるためだけの特訓へと堕してしまったのである。
そんな状況が一変する「時」がやってきた。私のチラシが捨てられなくなった。それどころか、手にした学生たちは大事そうにそれをかばんにしまうようになった。また、すぐにレスが入るようになった。いったい何が変わったのだろうか?
それは、私が大学で教える機会をいただけたという変化である。そしてもう一つ。「興味あれば持っていってね」とチラシを出入口付近に置くだけにして、手渡さなくなったことである(もちろん授業後に残ったチラシは回収した)。
一教室百人程度の大きさの場合、学生が持っていった枚数は、おそらく五枚程度。だから用意する枚数も数十枚でいい。しかし今までの統計では、必ず一人か二人はレスを入れてくれた。そこからつながった学生の中には、私の教会に通ってくれている人もいる。
私はこのような劇的な変化を目の当たりにして、福音を伝えるための現代的なキーポイントを知ることができた。それは、「水は上から下に流れる」だ。
日本人は自分がリスペクトする相手から何かアクションを起こされると、それに応じることをあまり毛嫌いしない。むしろそれを積極的に取り込みたいとすら思う。
私の場合、「ただのおっさん」から「○○先生」へと進化(牧師がなんて言葉を使うのか!)したのである。だから学生にはインパクトを与えることができた。授業で私の人となりを知ってくれた学生が「この先生、おもろいやん!」というノリで、私の提供するチラシを安心して持っていってくれたのだ。
実はここに「伝えること」のもう一つの本質がある。私はそう思えてならない。逆説的な言い方になるが、「伝えよう」とこちらが意気込まないことで、むしろ「伝わり」やすくなるのである。「伝えること」と「伝わること」の違いとでも言うべきだろうか。
このキラーパス的な発想の転換に気がついたときから、私の伝道スタイル、そして伝道力が格段に変化していったのである。
次回からもう少し多角的に、この「伝えるということ」について考えてみよう。